もう一度観たかった!文楽の醍醐味 「摂州合邦辻」
2018年 02月 16日
昨日観た、文楽「摂州合邦辻」をもう一度観ようかと思ったのに、一瞬の迷いが仇となった。
剛直な父親(あの青砥の息子なのだ)が激怒して愛娘を刺す。
すると初めて本心を明かす娘、わざと父を怒らせ殺されようとしたのだ。
その訳は、俊徳丸が世継ぎ争いで腹違いの治郎丸に暗殺されるのを防ぐために病気にしたのだという。
夫に治郎丸のタクラミをチクれば、治郎丸が殺される、どっちも継子であり亡き先妻(玉手が仕えていた)の大事な息子、命を守りたかった。
俊徳丸に呑ませた毒は、「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に生まれた女の肝臓の生き血」を呑ませることで消えて、病は去る。
(そのことを)聞いた時のその嬉しさ、、、(略)コレ申し父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ父・合邦は
ヲイヤイヲイヤイヲイヤイヲイヤイヲイヤイ、、と泣く泣く泣く。
寅尽くしの生れ、玉手は自らの鳩尾を切り裂いて、肝臓の血をとり俊徳丸に呑ませる。
ここが後半の山場です。と語っている。
玉手はもう手負いになってますから、淡々と語ります。玉手の詞が長いから、淡々のうちにもお客さんにようわかるよう語らなあきまへん。
合邦の[これが坊主のあろう事かい、これが坊主のあろうことかい]と、[オイヤイオイヤイオイヤイ]は、毎日同じようには語れません。
計算通りにいかないのです。ここで「かわいそうや」とお客さんに思わせないかんし、また、床本が泣けるように書けてます。
「かわいそうや」と思えたが、泣くまでには至らなかった、前の席の奥さんは目頭を押さえていたけれど。
ヘンな言い方だけど、心地よい悲しみ、かな。
人形であること、価値観が違いすぎるし、やることが現代では非現実的、だけど「かわいそうや」と感じたのは、今日襲名披露をした竹本織太夫(豊竹咲甫太夫改め)や人形遣い・吉田和生、桐竹勘十郎、切の豊竹咲太夫(追善供養をした竹本綱太夫の息子にして今日口上を述べた)三味線・鶴澤燕三などが好かったからだろう。
<合邦>は、文楽では名人級の師匠たちから若い太夫までいろんな人がやっておられます。それだけええ作品ということですね。こういう演目をやってると、自分の力を作品がカバーしてくれるものです。大夫はええ作品に恵まれたら得ですね。段切りはええフシがついてるし。よくて、かわいそうで、おもしろかった。
幕が下りたら、お客さんの耳になにか余韻が残って「よかったな」「かわいそうやな」「おもしろかったな」と思うてもらえるような浄瑠璃を語らないきまへんなあ。
帰宅して余韻に浸りながら、住太夫の語るところを読み直す。
「しんたる夜の道 恋の道には暗からねども」、玉手が登場する語り出し、、たしかに良かったなあ、「母様母様」、ことばはおなじ「かかさん」でも二へん同じ声で言うたらあきまへん、うん、そうだった。
文章がよくて作曲がよければ、語りよいし、人形の振りもええし、お客さんも喜び、なにもかもいいことずくめです。
まったくだったなあ、もう一度観たいなあ、、で冒頭に戻ります。
朝起きてくると「おしっこおしっこ」と声をかける。
「まだ出ないんだけどなあ」しぶしぶシートに行って、ちょっと女の子スタイルで出るのを待っている。
出たア、嬉しそうに跳ねながら報告に来る。
僕が足が攣ってイテテ、スッ飛んできて、足や手を舐めるが、効き目がない。
困ったサンチは窓に駆け寄り、外に向かって「わわ~ん!」助けを求めるのだ。
私も周りに同じことが起きているので、そのお気持ちはよくわかります。
毎日が輝くように充実するといいですね。
文楽も本拠地を東京に移した方が良いのではという提案でした。
伝統を重んじるか、興行面を考慮するか、難しい問題です。
一部から三部まで全部見る人は少し安くしてくれればいいなあ、と思いましたが、満員になるんじゃだめですね。
チラシをみたら地方公演もけっこうやっているんですね。
観劇レポートを楽しみにしております。
中学の体育館で見たときは面白くもなんともなかったけれど、最近面白くて!