佳く生きる
2017年 10月 12日
自分たちの母親は50歳で壮絶なガンとの戦いの末に逝ったのだ。
自然に息子たちとの話は亡妻の葬儀のことやホスピスでのみんなの暮しのことなどに移っていった。
あの死の前後は子供たちも若かったし(次男が大学一年、長男は社会人一年)、ぼくも無我夢中だったから、こんどの義母の葬儀のようにいろいろ考える余裕もなく、葬儀の後も家族それぞれが悲しみを胸に抑え込んで自分の新しい生活に戻っていき、こうして母の死を語ることも少なかった。
僕が亡妻がいけなくなったときに、
○○君(次男・末っ子)ともう少しいたかったなと漏らしたということを言ったときにも(前にも言ったのだが)、キマリ悪そうに笑って下を向いたのみ。
あのとき、司式をして下さった神父さんが
人間は長く生きるか短く生きるかではなくて、どれだけ「よく生きるか」だと言ってくれたのを喪主のあいさつで触れて「○○子はよく生きたと思う」と言った。
カトリックで葬儀をしたことを覚えていない長男は、その言葉を覚えていてくれただろうか。
せんじつなにかで「充実した人生、などというのは人間の傲慢である。宇宙の一員として恵まれた命をもった存在であること、それに良いも悪いもない。」というような言葉を読んで、ガツンとやられたような気がした。
その通りだと思う。
でも、母親にはたとえ92歳になっていても、一日でも長く生きていてほしいと思うし、それがかなわず早く亡くなった親はそれでも充実した人生を生きてくれた、と思いたいのだ。
通夜で坊さんが、無常を知ればこそ、今やるべきことを先送りせず今日のうちにやりなさい、といったあと、にやっと笑って、「頭ではわかっているんですよね、みんな。でも身体が動かないんですよね」といったのは、救いだ。
今朝は素晴らしい秋晴れ、五時起きしてベランダに出ると飛行機雲が青空にシュプールを描いていた。
洗濯を二回して、マットを干して、ダイソンにもお出まし願ってルンバと遊び、サンチと金木犀の香りのなかを散歩。
このあいだまであった立派な家が跡形もなく消えていた。
充実なんかしてなくてもいいのだ、生きているんだ。
今朝はNHK衛星テレビ、NHKFMの両方でこの歌を聴いた。
今までよりずっと身近にしみじみと聴いた。
長く生きるも短く生きるも、与えられた寿命の長さだと考える私です。
今、ここに存在することが全てですね。
だから、一日一日を大切に積み重ねたい。
saheiziさんが、5時起きして家事をこなせた事が嬉しいです。
悲しみはこれからも続くと思いますが、日々の中に心の安らぎが見付けれますように。
『佳く生きる』・・・ですね。
『佳』の字が好きで、娘の名前にしました。
こういう時に酒を飲みたくなるのは、若い証拠です。
私の尊敬する義伯父が、彼は90歳まで生きました。
「liberajoy、酒が飲めるうちが華だよ。(80歳の時に)もう、俺なんかダメになった。寂しい限りだ」と言っていました。と、言いながら、日本酒を舐めていました。今でも、彼の食生活や酒の飲み方を真似している私です。
私もそう思います
命は長さではなく、どうやって生きたか。だと
産まれてすぐに死んでしまった子も生きると言うお役目は果たしています。
「ラストサムライ」観ましたか?
天皇がトムクルーズ扮するネイサンに 勝元がどうやって死んでいったか訊ねるシーンがあります
そこで彼はこう答えるのです
どう死んだ のではなく、どう生きたかをお話ししましょう。と
お義母様のこの人の手の温もりがいっぱい感じられるこのお葬式は お義母様の生き様そのものを表しているように感じました
そしてこう言うお義母様に育てられたsaheiziさんの奥様はきっととてもステキな方に違いないと思いました
なんと言っても saheiziさんが惚れちゃったのですから、笑
奥様のお陰で こんなにすてきなお義母様にも出会えてsaheizi さんお幸せでしたね
考えているだけでは、ダメですけど(笑)。