たった一人の参会者
2017年 10月 08日
今週はさすがに8千歩には届かない日が多かったけれど平均では8200歩を確保できた。
その内容が病院の行きかえりとか葬儀の相談準備とか気持ちよく散歩したのではないから足も喜ばなかったかな。
家族葬、こじんまりと身内だけで心のこもった葬儀をというのが、遺された義兄(喪主)の意向でありカミさんも同意だ。
小さな規模で身内だけというなら、何をそんなに相談することがあるのか、と思うが、さにあらず。
最終結論が出るまでにはいろいろ詰めなければならないことが多い。
義兄とカミさん、葬儀屋さんの間に入って、意思疎通の仲介をする場面も多々あった。
自分のことなら、さっさと決められても、懐具合や人生観、どういう「身内」がいるのかもよくわからないから、忖度しながらの話だ。
時間との戦いの中で葬儀社などの言うままに、ひたすらミスのないことを念頭に進めてしまったこともある。
お通夜のもてなしについて、学生時代に祖父のお通夜(自宅でやった)で施主の叔父が酔って酒臭い息でいろいろ話しかけるのに反発したことなどもあって、亡妻や亡母の葬儀のとき料理や場所の用意はしても、自らは最後まで式場に残って参会者に挨拶をし続け、酒食の場所には顔を出さなかった。
事実、式が終わったのちも参会者の列はいつまでも続きもしたし、笑い声すら漏れる酒の席に出る気力・体力もなかったのだ。
句集を発行したいと亡母の俳句の仲間たちがいらしたときに、さいごの模様や思い出を語りたかったと、文字通り面罵されて、ああ、なんと未熟な息子だったかと、それを思い出すと今でも叫びだしたくなる。
それはともかく、そもそも葬儀入門なんて小学校から大学卒業まで改めて学んだことがないのだ。
仏教の教え、宗派や坊さんの違い、土地の言い伝え・習わしに一族の長の意向などが絡み合って伝わってきた葬儀のやり方。
それにビジネスとしての寺や葬祭業の「アイデア」などが加わり、「世間体」とか「故人の遺志」「故人の冥福のために」などが殺し文句になって葬儀本来の趣旨が見失われていることがないだろうか。
亡妻はさいごにいたホスピスの構内にあったチャペルの讃美歌を聴いて、こういう葬儀をしてくれといい、神父さんに信者ではないけれど大丈夫ですか、遺された者たちは仏教であっても「あちらの世界」で逢うことはできるのだろうか、などと尋ねたうえで、キャパシテイなどの事情もあって三鷹の寺に神父さんにお出まし願って大きな葬儀を司式してもらった。
いよいよというときに、神父さんや聖歌隊の人たちが病室に来てお祈りをしてくれたなあ。
でも山梨のお寺から日蓮宗の戒名(葬儀社のいう相場から見たら、ほんとうに「お気持ちだけ」のお布施で)をいただき、葡萄畑の中の墓地で眠っている。
聖公会の信者だった伯母は教会だった。
概してキリスト教は簡素でみんなで讃美歌を歌って送ったりするのがぼくの「好み」(葬儀式の在り方として)ではある。
とはいえ、自分の遺志として葬儀をどうしてほしいのか。
やらなくてもいいけれど、みんな(カミさんと子供たち)のやりたいようでいい、基本はやらなくてもいい、ということかな。
とつおいつ、考えてみたら、葬儀の基本は
家族が自宅で故人の寝床のある部屋で、泣いたり、故人の思い出話をしたり、感謝の言葉を口にしたりして、酒も飲み(僕も成熟した?)、酔ってはまた故人の顔をみて焼香したりして、火葬場に出発するまでのお別れをする。ということじゃないだろうか。
たった一人の参会者なんてのも悪くないような気がする。
昨夜、そんなさのさを聴きました。
いずれにしても寂しくなりますね。
子どもたち、孫たちだけでいい。
散骨希望でも、それは断られました^^;
仏事で全部済んだら、感謝しながら旅立ったことだけを伝えて欲しいと。
自分の事は決めれるけど、義父母の事は私は言われた通りにするだけ。
義父の時は、この家に連れて来て、それから怒涛の日々でした。
今は、体力が無いから、あの時と同じようには出来ないと話していますが^^;
主人も家族葬でいいと言ってますが、どうなるかな?
車で40分の距離がよかったのかな。
死んだ後のことなど何を言っても当てにならないとは思うけれど、それでも言っておいた方が親切なのかとも思う日々です。
ずっとJAZZを流し、白いフリージアの献花を
お一人ずつして頂きました。
翌日の葬儀はお寺の墓地に入れる関係で
お坊さんにお経をあげていただきましたが、、、
私も曲を指定で息子達に頼んであります。
友人達に集まってもらって、一晩中でも呑んで
笑って送ってほしいな、、、、
たった一人の会葬者も大勢の会葬者のいる葬儀も、故人を思えば、どっちでもいいですね。
遺書を残します。つまり葬式はいらないと。
そのような葬儀屋のチラシなども冷蔵庫に張ったりして。
この考えに反対の知人もいたり、お坊さんはあの世にこれではちゃんといけないよとおっしゃいますが、意志を伝えて残った者に任せましょう。