百合子は百合子でも 武田百合子「あの頃」
2017年 09月 30日
呆れて、または「達観」してどうせあんな連中だ、誰がどうなろうと知ったこっちゃない、政治に期待することは何もない、と白け・無関心になる人も多い。
だが、それこそ彼奴らの計算された狙い、政治に無関心な国民を創り出し、戦争の出来る国に仕上げる。
ヒトラーのやり方に倣う、とアソーもいった。
北朝鮮(政治不在)では400万人とかの軍隊希望者があったという。
トランプは周りを軍人で固め、閣僚は専用飛行機を乗り回している。
目を覚ましていよう。
夫の泰淳の「司馬遷」「ひかりごけ」などの方を先に読んだのに泰淳という人物は作品の裏にしかいなかった。
百合子さんが書く日常の草ぐさを通して泰淳が血の通った屁もする笑いもする人間として立ち上がってくるのだ。
泰淳が亡くなって一年後に富士の山荘に行き、夫の遺したままに散らかった机を見て、去年の今ごろの在りし姿を思い、やっと夫の死を受け入れていたのに、その人があらわれてきそうな気がする。
「あら、とうちゃん、どこにいたの。ずーっと二階で昼寝してたの?あんまり静かだったから、死んじゃったのかと思ってた」
「そうです。一寸死んだふりをしていました」
私たちは、いつものようにそんなことを言ってふざけるだろう。(「今年の夏」)
こうして読んでいると、みんな命を得て目の前でじゃれ合っているように感じる。
生きていてもあったことのない人たちだから、亡くなっているということを知らなければ、死んでしまうということはあまり大きな違いはないような気もする。
それは百合子さんの文章の力でもあるだろう。
百合子さんが書いている、泰淳に言われて「富士日記」を書くにあたっての心がけ。
〇 自分に似合わない言葉、分からない言葉は使わないようにしたいと思っている。
例「時点」「接点」「原点」「次元」「問題点」「私にとって―とは」「ー的」「出会い」など。
〇 キライな言葉は使わないようでいようと思っている。「ビューティフルな生きざま」「ヤングたち」「とんでる女」などの、女性週刊誌やテレビその他で流行らせる言葉。(略)
〇 美しい景色、美しい心、美しい老後など「美しい」という言葉を簡単に使わないようにしたいと思っている。景色が美しいと思ったら、どういう風かくわしく書く。心がどういう風かくわしく書く。くだくだとくわしく書いているうちに、美しいということではなくなってきてしまうことがあるが、それでも、なるたけ、くわしく書く。「美しい」という言葉がキライなのではない。やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。
もう一人の百合子に読ませたいくらい。
「美しい」「楽しい」などを安易に書いて済ませてしまう僕も恥ずかしい。
10月27日が返還期限、当分楽しめそうだ。
武田 花 編
中央公論新社
言葉の使い方には気をつけようと思っていても、美しいとか楽しいとか(その他にもありそうですが)を多用してます。語彙が少ないのですね。少なければ少ないなりに「丁寧に」描写しなければいけないのかぁ。
私も泰淳から入りましたー。
少女のような純粋な視線で語っているかと思ったら、ふと、女の生理が生々しく顔を出す。読みながら、翻弄されるようです。
もう一人の百合子さん、僕は、こっそりと『平成のおんな斎藤道三』 と呼んでおりますが (笑)
こちらも、さっそく手玉にとられた男がいるようで・・・ 可哀想なM原くん (^^;
高度4000メートル電波の届かない所有り、やっと訪問です。
私は武田百合子さんの「富士日記」を新聞の書評を読んで購入し、百合子さんにはまってしまいました。彼女の文章はとても分かりやすく、気取りがなくて、彼女を身近に感じさせてくれるますね。
「富士日記」をすべて読み切ってから、ほかの作品もいろいろと」読みました。ご主人(泰淳さん)の本はいまだに読んでいませんが。。。
泰淳さんが亡くなってからのエッセイが多いせいか、なんだかせつないですね。
若くして未亡人になった母の事を考えさせられました。
自分は早くに父を亡くしたと思っていただけで、母の事はあまり考えなかったのです。
百合子さんの書くものってどうしてこんなにも私たちをひきつけるんでしょうね。
談春師匠の文七元結、よかったです。
今月末は志の輔さんが来ます。
人柄が素晴らしいです、会いたくなります(ちょっと見ぬかれそうなのが怖いけれど)。
談春、志の輔、今いちばん切符がとりにくいといわれていますね。
私にはちょっと重たいけれど、演劇的ですね。