9・11に
2017年 09月 11日
なぜか当時はやっていた赤い小さな車が野道のあちこちを走っているのを、赤とんぼみたいだと思った。
神社に多くの幟が上がっていてお祭りだった。
夕飯をすませると布団を敷きに来てくれたおばさんが、遠くから聞こえるお囃子の音を「あれが聞こえると悲しくなる」という。
家を出ていった息子がどうしているかと、数年前まではお祭りには帰ってきたのに、と。
いぜんはお囃子の音が聞こえてくるともうすぐ帰って来ると楽しみだった、と。
まして首を長くして待っていてくれる親たちがいる人はその幸せに感謝しなければならない。
待てども来ない子どもを思って切ない親たちのことを思いやらなければならない。
反省するよ、ぼくは。
いつも近所の部落の祭りの音を聞くだけ、たまにどこかの神社に連れて行ってもらうと嬉しかった。
今のようにいろいろ屋台があったろうか、綿菓子を食べたことがあるなあ。
アセチレンガスの臭い。
社会人になって、東京で育った、たとえば深川の男が祭りを大事にする気持ちが自分のアイデンティティを守るがごとくであることに驚いた。
今、桜新町で「はじめ」やクリーニング屋の大将たちがそうであっても、もう驚かない。
今の都会の若者たちにお祭りに参加する人が増えているようだ。
神輿をかつげると聞くとどこにでも出かけていく娘たち。
この人たちや多くの子どもたちが祭りを喜ぶ気持ちは、遊園地に行く楽しみと似たものかもしれない。
幼いぼくと同じだ。
毎年欠かさなかったとはいえ、夏休みと正月の数日しか帰省しませんでしたから。
この間あそこの前のホテルに泊まりましたのに。
お祭りに顔出すような故郷、有るけど無いに等しいです。
このようにお祭りと故郷を考えたことがないです。
子孫に伝えるべきこと、いっぱいありますね。
そんなに地元のお祭りの記憶はありません。
大学になって神田明神や浅草の祭りに誘われて行って、
先輩達が担ぐのをみて、へ~と驚きました。
先輩はアメリカにも担ぎに行き、神田っ子であることを
誇りにしていました。
我が家などは後者ですが、なんとなく何ごとがおはしますか、手をあわすことはすりこまれています。
そのこととお祭りは結び付かないけれど。
その後、友人、知人たちと、アメリカが報復しないよう、連鎖が起こらないよう、なんとかしてニューヨークタイムスに意見広告を出そうとメールを転送し続けました。
あのとき届いた、息子を失ったひとりのアメリカ人の言葉が忘れられません。
「わたしは祈り続けます。怒りではなく、祈りです」
祈りは届かず、私たちは非力で、現実は最悪の方向へ向かってしまいましたが。
親のいる幸せをかみしめなければいけませんね。
親はいつも祈ってくれているのですね。
今の今も親が殺され子が殺され、一人ぼっちで餓えています。
この世界を見ると、かえってテロリストの心情に寄りそいたくなります。