韓国の人たちにお礼を言いたい チョ・ジヒョン写真集「猪飼野 追憶の1960年代」
2017年 07月 09日
5世紀、百済系渡来人が集住し、1921年から23年にかけて水はけを良くして工場や住宅地にするための大拡張工事に、慶尚道から多くの労働者が安い賃金で連れてこられた。
1922年には済州島と大坂間に定期連絡船”君が代丸”が就航し、済州島から多くの労働者、女工たちが渡日してきた。
「火山島」の著者・金石範も1925年済州島から単身渡日した母の胎内で君が代丸に一週間以上を過ごし猪飼野に来て生まれた。
1948年4月3日、済州島で起きた武装蜂起、その日を境に島は30万人全島民を巻き込むゲリラ戦と、無差別の殺戮の場と化し、約2万人が日本へ逃れたといわれ猪飼野に住んだ者も一万人をこえた。
1968年京都市生まれの詩人・丁章(チャン・ジャン)はこの写真集に寄せた詩のなかで、済州島から猪飼野に来た、はらからたちは
誰もがと歌い、続けて写真集でみられる、胸打つ風景を列挙する。
より多くのものを手に入れ
そしてすべてを
喪失した
猪飼野は
沈黙の坩堝でもあり
四・三の沈黙
密航者の沈黙
暗殺者の沈黙
革命者の沈黙
沈む沈む沈黙
半世紀の沈黙
猪飼野の沈黙は
分断の歴史そのものである
埋められた沈黙を土台にして
築かれていった聚落の風景
老婆の号泣
男どもの怒号
子を背負う女たち
太い指 荒れた手 へし曲がった腰
路地裏の ゴム屑と 豆もやしの樽
風呂敷商売(ポッタリジャンサ)
廃品回収のリヤカー
キㇺチ 豚足 いしもちの干物
気品高きチマ・チョゴリ
ゆらゆら浮かぶ川の小舟
橋の交番
商店街に掲げられた横断幕のスローガン
人々のいがみ合い
それでも女たちの笑顔と男たちの笑顔と
そして子供たちの
笑顔 笑顔 笑顔
60年代、植民地・朝鮮から引き揚げてきたぼくは貧しいながら大学に進学、就職、高度経済成長のなかで仕事に邁進していた。
子供も出来て将来を悲観することもなく生き生きと笑い声の絶えない日々だった。
同じく朝鮮から日本にやってきた人たちのことをどれほども知らないままに生きてきた。
お借りした写真集を折にふれて開いては、そこに、もしかしたらあり得たかもしれない、いや、ほんとうなら日本人・自分が甘受しても不思議ではなかったもう一人の自分の姿を見る。
亡妻が入院したときに駆けつけてきて、「ミス・サイゴン」に連れて行ってくれた韓国人青年たち、彼らは新聞配達店に住み込んで勉強をして、日本語学校で妻(韓国語は何も知らない)に教えられた青年たちだ。
亡母を釜山に連れて行ったとき、母が学んだ、かつての日本人の高女を尋ねて、もういいからというのに、あちこち走り回ってとうとう職員室にまで上がり込んで、この学校がそうだと日本語をしゃべれる授業中の先生を引っ張り出してくれたタクシー運転手と授業をさしおいて学校の記念館を案内(母が自分の教室の写真をみて泣いた)してくれた学校の先生。
どちらも名前を覚えることができなかった。
彼らに感謝する気持ちが年々強くなるというのに。
そんなに知らないけれど朝鮮が好きだし朝鮮のことを知りたくなる。
「火山島」を読んでいると、誰かと話したくなって、済州島出身の今は閉店している「ソウル」のママに電話した。
何日か電話したがいつも発信音があるのに出てこない。
心配しながらもあきらめていたら、ママから「昨日までソウルに行ってたのよ、ゲンキィ?」と電話があった。
4・3事件のことはあまり知らないのか、話したくないのか、生返事だった。
元気そうでほっとした。
白と赤紫のムクゲは初めて見るように思います。
4.3事件も猪飼野も、全く知らずにいい年になりました。
訪韓時の、タクシーの運転手さんや学校の先生のことは
前に読ませてもらい印象的です。30年程前、上役の代理の
視察である施設を訪ねた際の献身的な人々、土産の日本酒を
澄んだ鋭い目の若い職員に拒絶された恥かしさを思い出しました
そうしたら佐平次さんの家もそうだったのですか。お父さんも亡くなられたのですね。お母さんの苦労はいかばかりだったか。連れて行って差し上げたときはとても喜ばれたでしょうね。
亡母に対して釜山に連れていったこととか浅草演芸ホールで住吉踊りを見たこととか、やっておいてよかったことがあるのが不幸息子のわずかな救いです。