白鳥の歌だったか 長谷川宏「日本精神史」&加藤周一「日本文学史序説」・「愚管抄」
2017年 06月 18日
ハスカップとメロンのゼリー、どっちがいい?ハスカップ。
スプーンですくって食べさせてあげたが僕からされるのがきまりが悪いのか、行く前に月例の誕生会でケーキを食べたせいか、だいぶ残してしまった。
首のマッサージも「気持ちいいけど、罰が当たる」などと言ってあまりやらせなかった。
寝ていたのを起こされて車椅子に座ったので、寝たかったのかもしれない。
相談したなら同じものを送らないだろう。
まあ、わかりやすい親父ということか。
母の日プレゼントは子供のころから、それこそカーネーションなどをあげてきたけれど、父の日なんてなかったし、あったとしても父はいなかったし、毎年もらうばかりで申し訳ない。
みずから政治支配層に属する一知識人(関白藤原忠通の子・天台座主・歌人)が、現実政治の動向に広く目配りをし、過去の時代にも遠くさかのぼって、世の中を動かす普遍的な「道理」を見出そうとする、現実認識の試みだった。(長谷川)漢字混じりかたかな書きを意識的に採用した。
その理由は、学問をした人でさえ、漢字を読んで「ソノ義理ヲサトリ知レル人」は少ない上に本来の日本語は誰でもその意味を知っていて理解できるから。
そもそも日本語による表現の可能性を語り、このように明示的であったのは、おそらく慈円が最初である。『正法眼蔵』をあえて日本語で書いた道元の見識とならんで、画期的な独創であった。このような見識は、道元の場合と同じように、おそらく天台座主慈円のシナ語の知識が貧しかったことにではなく、むしろ豊かであったことに由来したにちがいない。(加藤)
多くの史書・経書などにとどまらず藤原家に伝わる伝承や体験談など幅広い知見と豊かな情報を駆使して、物語の一場面でも読むように、人物たちの生き生きとした動きと、打てば響く応接のさまが描かれもし、精彩ある実証的な歴史書となっている(長谷川)。
それは、
この世を乱れた末法の世だと自覚する慈円にとって、そこになおも生き甲斐を見出そうとするぎりぎりの知的選択だった。時代が強いてくる絶望感や無力感に負けまいとし、知と論理によって立とうとする知的エリートの必死の思想性をそこに見てとることができる。(長谷川)が、その思想は武士の登場の背後にある地殻変動にまでは目が行き届かない。
定家は文化を擁護し、建礼門院右京大夫は失われし時をもとめ、鴨長明は退いて観察し、慈円は日本語ではじめて「歴史」を書く。これが平安朝文化最後の知識人たちの、新時代に対する反応であった。そのすべてに共通していた特徴は、自分自身と貴族社会以外の武士にも大衆にも何らの同情をもたなかったということであり、新たに興った鎌倉仏教から何らの影響もうけなかったということであり、殊に彼らが書いたときには、彼らの仲間・貴族社会のために、またそのためにのみ、書いたということである。(加藤)それが「滅びゆく貴族」というものか。
とうてい知的エリートとは言い難いけれど、自分たちのことしか考えない安倍たちもトクトク滅びよ。
So impressive the article!
(sorry in English)
安倍たち トクトク滅びよ! 安倍たちトクトク滅びよ!
安倍たち トクトク滅びよ! 安倍たちトクトク滅びよ!
ますます旨くなった ÖÖ...
大根の漬けもんもつけたいけれど、臨月婦人を抱えてるので氣忙しい。
3度目の台湾でしたが、大日本帝国統治時代の「台中」にて大規模なアース・ダムと灌漑用水路を整備し、下流域一帯の不毛の大地を水田(3毛作)と蓮池に変えた日本の農業土木の先達・「八田」氏の偉業をバスの車窓から垣間見ることができました。
「円山大飯店」(高雄ですが・・・。)にも感激し、大雨の「九ふん」の食堂で食した沢庵とビールの美味しかったこと。
かの国でも、愛煙家にはつれないお国柄のようです。4日間ずーっと雨(スコール)、しかしてバスを降りた時だけ曇りでした由。
しばらく楽しめますね。
すっかり忘れていました。