ここにはまっとうな日本がある 狂言「伯養」・能「班女」@国立能楽堂
2017年 06月 17日
レトリックとしてではなく真剣に、総理大臣や閣僚を信じるなと子供にいうってのは考えてみれば恐ろしい日本になっているってことだ。
主義主張が異なるだけだったら、こんなことを云やあしない。
知性・理性・品性の点でこういう連中を信用してはいけないというのだから。
そういう連中が日本を動かしているんだ。
悪夢みたいな社会に生きているってことか。
昼からワインを飲んで、目黒川の桜の緑を愛でつつ、二時間、もうちょっと話していたかった。
いっさいの過剰を排した舞と美しい装束、笛・小鼓・大鼓の創り出す緊迫、謡の響き。
とくに狂言で聴くことができる、ゆっくりした日本人の魂が感じられるような美しい言葉。
外にはびこる空疎にして邪悪な権力が支配する世界とは対極の時空間だ。
鏡板に描かれた松と竹の緑がいつもより鮮やかに感じられた。
検校 ・別当・勾当・座頭という盲人の階級、その勾当と座頭が一面の琵琶を「私に貸せ」「いや座頭ごときにこんないい琵琶はいらない、わたしに貸せ」と譲らない。
琵琶の持ち主が、二人で勝負して勝った方に貸そう。
では、と歌を作り相撲を取って勝負。
仲に入って裁く萬さんが、いい笑顔なり。
能「班女(はんじょ)」
冒頭、野上宿の長(アイ)が遊女・花子(シテ)が吉田少将(ワキ・森常好が病欠のため殿田謙吉が代演)のことが忘れられず、互いに交換した扇を手放さず、ほかの客のところに出ようとしないので追い出そうかと思う、と言って花子を呼び出し、扇を叩きつけ
この扇を持ちて、どれへなりとも出て行かしめ。なう腹立ちや腹立ちや、腹立ちや腹立ちや約束したのに会いに来ない吉田少将を想い、狂ったようになって舞う班女、それが花子だとは知らない少将の従者に「もっと面白く舞い狂え」と言われる。
序ノ舞がしみじみと美しい。
靴ならぬ扇がお互いに取り替えっこした扇だと分かって二人は再会を喜び合う。
そのときの花子は確かに笑顔になった。
月を見つけぬうちに「はじめ」でヌカミソ談義をして帰った。
そんな生き方してみたいー
でも今となっては無学無知な自分です
何もわからなくてもぽか~んとしているあの空間がいいのです。
アルプスが見られない代償ですよ^^。
能とか謡とか、やっていたとか…
今の人は、やってないでしょうね。
ゴルフが悪いとは思いませんが、
なんだかね…
まあ、私も年に一度、見るか見ないか程度なのですが…
アベ的な人たちにとっての「美しい日本」とは、
明治~満州国建国くらいまでなんでしょうね。
短すぎ…
最近、京都では『大政奉還150年』とかいうプロジェクトの
ポスターが、あちこちにベタベタ貼られていて、
なんか、いや~な感じがします。
『退位後の天皇を京都へ』とかいう運動もあるようで、
ちょっとこの街から逃げ出したくなる今日この頃です。
天皇夫妻は能楽堂でお見掛けしましたが、、読書でもなさそう。
京都人と江戸っ子がお互いに自慢やらけなしあいをする落語、これは江戸落語なのか、京都のおっさんがいやらしく描かれるなあ、「王城の地やさかい」を頻発するのです。
この入門を見てもわかるようになるってことはないかも。
能や狂言に興味は持てるかもしれませんが。
またはある程度興味のある人が見ると頭の整理になるようです。
そのうち渋谷で流行るかも知れません。
アベの真の目的は共謀罪の成立ではなく憲法改正ですから、悪夢は始まりの終わりではなく終わりの始まりです。
なんとか醒めないでしょうか。