この伝統を絶やすな 「山城少掾自伝」&「文五郎芸談」
2017年 05月 22日
これから長いお付き合いだ。
武智鉄二や扇雀(前の)が徹底的に発音を仕込まれたという伝説の太夫・豊竹山城小掾の自伝。
明治22年、12歳の時、この道に入って70年余を経て引退間際の昭和34年日経「私の自叙伝」として聞書で連載された。
いやまったく浄るり(義太夫ぶし)ほどやっかいな音楽はありません。それというのも、たった一人きりで殿様の声も出さなければならないし、お姫様にもならなければならないし、そのほかじいさん、ばあさん、芸者から傾城、武士、百姓、町人、でっちから非人、こじきにいたるまで語りこなさなければならないのです。そのうえ文章に従って喜怒哀楽、雨、風、雪、春夏秋冬の季節感や、着ている着物の色にいたるまで森羅万象ありとあらゆる情景を表現しなければなりませんし、それには想像も及ばない力と業(わざ)を必要とするのです。と語りだし、浄るりに家元・世襲制度がないのはあまりに難しいからだという。
「風(ふう)」、ある浄るりの初演当時の太夫のすぐれた語り口、もしくはその浄るりを流行させた中興の方がたの語り口、それをたどって原作の精神なり、人物描写なりを研究するところにこの道の修行がある。
そのために身銭をきって院本(まるほん・原作)を買い集め、何回も繰り返し読む。
むずかしいものでも10回も読むと、作者はどういう気持でこの曲を書いたかがわかってくる。
近松や竹田出雲の肖像画を観ていると、なにかしらその風格がわかるような気がするし、評判記を読むと昔の名人の語り口もある程度想像できる。
名所図会も買い集めて”かけことば”になっている地名を学ぶ。
生い立ちから、大序、序中(じょなか)、序切語りと血のにじむような苦労を重ねて昇進、やがて紋下という最高位につき、戦後ではただ一人の掾位を得るまでのことが語られる。
人形遣いも大変だ。
足遣い、左遣い(人形の左手だけを遣う)、主遣い(人形の頭と右手を遣う)が三位一体になってはじめて人形はそれらしく動く。
腰をかがめっきりで主遣いと心を一つにして臨機応変に動かなければならない足遣い、これだけで5年10年とやらされるのだ。
足遣いは、主遣いに自分のからだをすりよせて、その腰に右腕がぴったりと当たるようにして、主遣いの腰のひねり方を右腕で感じとる。
さらに足拍子も足遣いの役割、人形の動きと三味線の間にぴったりあわなければならないし、懸命の力が入っていなければならない。
駄目だと主遣いに叱られて下駄で蹴ったり踏まれたりして生傷が絶えない。
昭和18年に発行された「文五郎芸談」のなかで「今の者」たちがいい加減なことを嘆いている。
今ぼくたちが見ている文楽は彼らから見たらどうなのか。
これだけの伝統芸術の質を維持し続けるためにぼくたちでもできることは、できるだけ劇場に足を運ぶことだと思う。
それでももの足らず、図書館に文楽入門の本を予約した。
ああ、こんどはいつ観られるのだろう。
以前買った本がまだ残っていたのですか。全部読んでくださいね。
以前買った本を読もうとなると一年や二年じゃ読み切れません。
でも少しづつ折にふれて読んでいこうかと思っています。
食うに困るようになっても本だけはと思って買った本ですが、図書館で借りる方が多くなって塵をかぶっています。
タチアオイと空蝉 本物の夏です。
今日は秋田も27度でした。
30度になったら寒冷地仕様の体は悲鳴をあげます。
暑かったので窓を開けていたら、夫が蚊を発見。
初蚊取り線香を焚きました。
夜は窓を開けて寝ています。
けさ4時頃から向かいのオジサンが道に出して車の整備、エンジンをかける音で眠れなくなりました。
年になんどかジープで遠出をするようです。