死んでしまえばおしまいさ 前進座五月国立劇場公演「裏長屋騒動記 落語『らくだ』『井戸の茶碗』より」
2017年 05月 20日
監修・脚本の山田洋次が2011年にNHK「芸能百花繚乱―前進座八十年の軌跡」で語った言葉がチラシに引用されている。
今、日本人は笑いたいんだけど、気持ちよく笑わせることほど難しいことはない。それは、笑わせる方が、観客と同じような生きる辛さを共有していないといけないからです。そして、前進座にはその資格があると思うんです。
二つの落語をつなぐのはその長屋と屑屋の久六、大忙し、あっちでもこっちでも「お前はいくつになった」「へえ、45です」「そんなになってこんな道理がわからないのか」とやられる損なキューピッド役であり、馬さんにカンカンノウを踊らせもする。
因業大家の家に兄貴分の半次が談判に行って、正面のふすまを開けるとぬ~っと馬さんの巨大な死体が現れる。
首を振り腕をギコギコ上げたり下げたり、大家もカミさんも腰を抜かす。
気味が悪いというより大爆笑。
この場面は間違いなく落語よりも前進座の方が面白い。
半次が死体になった馬の足を拭いてやりながら「こんなことになっちゃって」とか「三途の川の渡し賃を持ってるのか」「お前は地獄行きは間違いない、俺もそうだから死んだらまた会おう」などとしおらしく声をかけると、(大酒を飲んで立ち場が逆転している)久六が「おめえ、誰に喋ってんだ?」と訊き咎め「地獄だなんだってのは死ぬのを怖がる人間の考えた嘘、ほんとは死んでしまえば一切何もなくなる」という。
半次「真っ暗闇になるのか?」久六「黒くも白くもない、なにもないんだ」。
久六の死生観は以前からのものか、それともカンカンノウを踊らせているときに、ふと感じたものか。
落語でも久六が馬さんの頭の毛をむしったり足をおっぺしょって無理やり樽につっこみ、落としたと勘違いした願人坊主を乱暴に火屋に放り込むのは、酔っ払ってのことではなくて、モノになったに過ぎない遺体に対して湿っぽい感情を持っていないのだと思う。
山田洋次の「らくだ」解釈もそうなのか。
山田自身の死生観も同じなのか。
馬さんのような悪者が極楽に行くというのは親鸞ならともかく一般庶民には納得がいかない。
さればとて、馬があれほど悪くなるについては、それなりの事情もあったのだろう。
彼なりに苦しい一生だったはず、それを死んでまで地獄で苦しませるのも可哀想、だったら何もなくなるというのが思いやり・救いというものではないか。
山田監督のやさしさかな。
朴斎の娘と高木作左衛門の初々しい恋、白無垢の花嫁と仕官なった父を送る長屋のみんな、よかったね。
演出・小野文隆
でも馬なら毎年化けて出てきて供養(という名目の酒盛り)を大家に強要しかねません。
それから井戸の茶碗ですが、あれは秀吉が朝鮮から略奪したものですから本当は朝鮮に返さなければならないんじゃないのでしょうか。
その辺を据え置いて今の日本人は笑えませんよ。
確か85歳だったと思うのですが、精力的に活動されていますね。
「らくだ」は7月に権太楼(にぎわい座)で聞きます。楽しみです。