歌の力が武士を負かした 『新古今和歌集』@長谷川宏「日本精神史」&加藤周一「日本文学史序説」
2017年 04月 06日
長谷川はすぱっとそこに流れる精神を説きあかし、加藤は多角的に特徴や他の作品との関連などを分析的に説く。
どちらも読んでいる間は面白いけれど、ブログに書いた後は忘れてしまう。
虚しいようだが、少しでも楽しんだのだから良しとしよう。
どうせ墓場まで持ってはいけないのだし。
引かれ者の小唄ではない、滅びゆく者たちの精神の輝きが見てとれる。
彫心鏤骨、と評される作歌、
恋の歌にしても四季の歌にしても、技巧上の彫心鏤骨が素直な恋心や自然な季節感を離れて非現実的な想念の世界に浮遊する結果になるのは、それはそれでやむをえないのかもしれない。いや、もっと積極的に、非現実的な想念の世界にたゆたうのをよしとするのが『新古今和歌集』の美学だというべきかもしれない。加藤周一は定家の『毎月抄』などの歌論に説かれる「幽玄」「有心」などの美的価値について、
たしかなことは、そして重要なことは、13世紀初の貴族歌人たちが、武士の支配する社会のなかで疎外され、おそらくはその疎外に対する反応の一つとして、特定の美的価値を意識的に強調したということであって、その美的価値が正確になんであったかということではない。と言い、同時に『新古今和歌集』は、「本歌取り」の技法などに顕著なように、『万葉集』から『古今集』以後の勅撰集の流れを論じる伝統主義、まさに伝統的社会が崩れ去ろうとしていたときに文化的伝統を自覚したもので、専門的な歌人による文学運動的な機能を持っていたという。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃が彼の同時代から、西行の歌のなかでもっとも有名だったのは、
おそらくこの歌が北面の武士の貴族文化への降伏の証言に他ならなかったからであろう。という。
親鸞が関東の大衆を獲得して(平安仏教に)勝利した時代に、『新古今集』の美学は武士を改宗させることに成功した。すなわち西行と実朝である。貴族たちは文学で武士と戦ったということか。
浮遊するのは新古今の空間なのか。
春の夜の夢の浮橋とだえして 嶺にわかるる横雲の空 定家
(藤原良経)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html というサイトで見つけました。
待ちに待ったという感じです。
この頃ますます読書傾向が難しいと私には思える域に入られたような。それだけ頭がくるくる働いていらっしゃるのですね。これなら頭がすっきり、ボケないですね。