「教育勅語」にいいことなんか一つもない 金石範「火山島」Ⅲ 読了
2017年 04月 03日
世界人類の自由・平等・個々の命の尊重・差別を(社会から、自分の心のなかから)なくす。
そういう人類普遍の価値を追求・実現するためには、時として親孝行や家族に対する愛を犠牲にしなければならないことがある。
ほっておかれたらエゴイスティックに生きていく人間に愛他(利他)的生き方があって、それが社会を支えていくのだということを教えるのが教育だと思う。
自己犠牲は天皇=国家に対してのみ要請される、それがクソッタレ教育勅語だ。
教育勅語にもいいことが書いてあるとほざく連中のほとんどは、教育勅語にある「朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し」ていない新自由主義・経済至上主義・自己責任論者の我利我利亡者ではないか。
内心の自由を踏みにじる共謀罪を強行しようとする彼らの「朋友信義」「謙譲」「善良有為」「公共」「慈愛」なるものは1%の世界のみに通じる身勝手なものではないか。
そうだからこんな格差社会ができている。
なにが「教育勅語にもいいことがある」だ!
「火山島」三巻を読了。
4・3武装蜂起はそれなりの成果をあげたが、軍とのギリギリの和解はさっそく警察によって覆される。
この後の李承晩政権(軍隊)・西北(暴力的右翼)・警察による島民虐殺のことは歴史的事実として知っているが、いやでもこの先を読まなければなならない。
李方根は共産党秘密党員になることを拒否し、李を敬愛する南や康蒙九たちは失望する。
組織にくみすること、プロレタリアート・党中央を絶対視することを受け容れることはできないといっても彼らには理解できない、民族のために正しいことをやるのになぜ立ち上がらないのかと。
両班の血筋、済州島のバス会社などを経営する父との対立もケリはついていない。
父の屋敷に寄食して高等遊民的な暮しをするのも限界、すべてオッパ(兄)の言うとおりだった妹・有媛も「家を出るべきだ」という。
所有することから自由になって、どういう自分がいるのかを見極めたいと、亡母の遺産を処分することを梁俊午に相談したが、もったいない、それは坊ちゃん的思考・ニヒリズムであって、所有のままの自由というのもあるのじゃないかと、言われる。
県知事の秘書になっている梁俊午は、秘密党員になる覚悟だ。
日本にピアノを習いに行きたいと言っていたのに、もう行く気はないと断言した有媛とゲリラに身を投じた南承之の行く末はどうなるのだろうか。
怖いけれど先を読まなければならない。
親の方が晴れがましく緊張しているようだ。
韓国や北朝鮮をまたぞろ低く見るような風潮が気になります。
彼の国の混乱・悲劇は日本のもたらしたものでもあるのですし、ちゃんと大統領をやめさせることもできるのに。
わたしは仕事だったのかなあ。
今なら行くのに、三人の大学のどこにも一度も行ったことがない(いまだに)のですよ、都内なのに。