茶会がゴシップを運んだ 井伏鱒二「鞆ノ津茶会記」
2017年 03月 18日
肝心かなめのことは伝わってこないけれど、隠すから。
そうはいっても稲田はどう見ても即刻防衛大臣をやめるべきだということ、そしてしかるべき大臣(いるかどうかが問題だが)のもと防衛省・自衛隊の徹底的な”粛軍”を行わないと関東軍の再来につながることだけははっきりしている。
秀吉の天下では中央がらみのニュースはどうやって伝わったのだろうか。
それは茶会の場を通じて、と言わんばかりの小説を読んだ。
「ジョン万次郎漂流記」を探していて「日本漂流」という小説もあるのを知って、カムチャッカ、千島列島などに漂流した日本人のことを読んだら、この小説の前に収録されていたのが「鞆ノ津茶会記」。
作家の想像力は、そこに安国寺恵瓊を中心に小早川隆景麾下の武将たちが催した茶会の記録を創りあげる。
天正16年(1588)から慶長4年(1599)にいたる11年間、戦国末期、本能寺の変から6年目、秀吉が絶頂にのぼりつめ、やがて狂ったように朝鮮出兵、そして急逝。
秀吉を「戦が好き」「とかく入り婿のやうな気質」「(朝鮮出兵は)愚の骨頂と利休がいった」などと辛口批評したり、高松城の水攻めにおける城主清水宗治が舟の上で切腹する話、佐々成政が秀吉に切腹を強要されるときの、ハラワタをつかみだして天井に投げつけ、庭に飛び降りて「首打て」といった話、杉原盛重亡きあと、倅の弟景盛が兄元盛とその幼い子供たちの首を刎ねた話、、武骨な男たちが自身の手柄も交えて語りあい伝え合う。
茶室のしつらえ、使われた茶器、供される食事なども臨場感をそえる。
最初に濃茶が出て、次に瀬戸の平皿に竹輪(むしって醤油をつける)。こんにゃく、薄茶。カマスの干物、鶏卵(茹でて二つに切る)、鯉こく、茶漬飯。香の物。など、ぼくは思わずカミさんに「こんやちくわを頼む」。
御屋方様(小早川隆景)の茶の湯の流派で秘伝として大事なことは、秘は秘なるによって尊しと考へること。何かにつけて不足がちであるのが宜しいと考へること。そのことを考へない限り、茶の湯の会には出た甲斐がないと思へとな。(略)なるほどねえ。
桜は茶の湯には富貴にすぎるからして、桜は活けないものである。
恵瓊の言葉のなかに、
明史に『関白、東国ヲ侵シテヨリ前後七歳、中朝ト朝鮮トハ迄(つひ)ニ勝算ナシ』と云ってあるさうだ。明国の財政は高麗援助の費で底を衝いてしまったのだろう。太閤秀吉が八幡船を出す代わりに、若し明国を援助してゐたらと我等の思ふ日が続くのだ。秀吉には厳しい評言が多いけれど、彼の無邪気なあけっぴろげを楽しみ好感しているところもある。
僕の居酒屋酒と変わらんのだ。
違うのはそこで交わされる言葉、ゴシップでもそれを語る人物によっては滋味掬すべきものがある。
当今のSNSとはまるで違う。
新潮社
情報をいかに早く仕入れるか、
特に戦国時代は、
それが重要だったのでしょう。
嘘の情報も多かったんだろうなあ。
うまいんだなあ、もう。
ちくわはえらい!
じっさいは官邸サイドからの圧力があっていんぺいしたからそれが出来なかったのではないかと思えます。
どっちにしても内閣総辞職に値するのではないでしょうか。