とうとう見終わった忠臣蔵全編・歌舞伎 第三部・八段目から十一段目まで
2016年 12月 23日
歌舞伎・忠臣蔵の三か月連続完全通し上演も最終、第三部だ。
隣りに座った40代と思しき男性、「ああ、これでやっと終わりだ、文楽の一日通しとか、疲れたなあ」、なんだか難行苦行のようでおかしかった。
後ろの席にはHという噺家がいた。
古典落語と歌舞伎や文楽は切っても切れない縁だ。
花道から登場するのではなくて松林中央がさっと開いて二人がそこにいるのに場内嘆声。
児太郎の小浪がどこかおきゃんな風を見せつつも新婚生活を夢見て恥らうところは色っぽい。
移り変わる背景もいい。
やはり九段目が圧巻。
冒頭の「雪こかし」。
清冽な山科の朝の空気に酔った頬をなぶられながら祇園から大勢のお供を連れて帰宅する由良之助(梅玉)、凛としながらもかいがいしく迎える妻のお石(笑也)、そのあとすぐに展開する陰惨な、腹にぐっとこたえる緊迫したやりとりの前の清涼剤だ。
「それ聞きましょうか」「申しましょうか」「承りましょうか」、戸無瀬とお石の裂帛の気合がこもったやり取りなど、二時間近くずっと息をつめっぱなしで見入る。
小浪が心配して父・本蔵(幸四郎)の袖を引くと顔をみて「よいよい」と優しく頷いて(妻・戸無瀬に対するときと違って)払いのける。
ほろりとした。
むせび泣くような・鳥が身震いするような尺八、「鶴の巣ごもり」もすばらしい。
文楽ではなかった師直邸でのチャンバラ、これが楽しいのかもしれないけれど、俺はあまり感心しない。
雪も文楽の方が細やかに美しかった。
前から三列目にいたのに雪が落ちてこなかったのは、五列目(歌舞伎座)で雪をかぶったという丸谷才一の話を読んでいただけにちょいと残念。
この場面、むかしは服部逸郎が馬に乗って来て、その服部役者が「たまに」「忠臣各々の姓名をわが胸中に刻みたし」といいだしたらしく、「芸づくし忠臣蔵」は、
そういうときに一番がっくりくるのは、馬の中にいる二人。と中村仲太郎の話を紹介している。
昔は乗ったままでしたから、じっと立って聞いているのは(乗せて歩いているときより)つらいです。首のところへグングン重みが食いこんできます。毎日、かなり辛抱がいりますよ。たったひと言、自分の名前を言うだけなのに、つっかえたりしてるのが聞えると、もう無性に腹が立ってきて、暴れ馬になりたくなります。
緊張のあまり、言いにくい名前を度忘れして他人の名前を名乗る志士もいたそうだ。
昨日の若狭之助(左團次)は床几に座って名乗りを聞いた。
志士たちも二十日目ともなると間違うこともなかったのはめでたしめでたし。
ところどころ文楽の同じ場面と比べて見た。
不思議なことに、文楽も人形でなく生きた人間が演じていたようなイメージが浮かんでくるのだ。
松竹公演の役者を主体に見せる興行も大変に面白いのですが、国立劇場の作品を見せることを主体に据えた公演も愉しいものでした。
私も今回公演の鑑賞予定を終えてしまいましたけれども「貴重なものを観たなぁ」という気持ちです。
私も『周囲が皆さん落語など芸能贔屓』のつもりで何か言って、『まるで通じないこと』がございます^^;
夜の酒はカミさん帯同で近所の店です。
旨かったのは芝居の余韻もあったからかも。
ザ・劇ですね。楽しい観劇だったと推察いたします。
さて、仮名手本とは?
いろは47文字と浪士の数を指す、という他に末尾の文字を並べた「咎無くて死す」から、浪士への厳しい処断を暗に批判しているという説もあるようです。
こうした解読はそのまま梅原猛、井沢元彦氏などの「御霊信仰」をキーワードとした著作へと繋がっていきます。