他人の世界に心を開く 申京淑「離れ部屋」
2016年 11月 24日
今朝は7時前にゴミ捨てに外に出たら、みぞれ、首を出したシャツ一枚だったから、なお一層いい気持だったけれど、二分が限界、今は雪になった。
このうえに雪が積もったら、滑って危ないだろうけれど、あれからじゃ片付けている暇がない。
年齢は20歳も離れているし、韓国のことだし、女性でもあり、貧しくても(その村ではゆとりがあるほうだが)両親が揃っているし、素晴らしい大きな兄がいて涙なくして読めないような支援をしてくれるし、、いろいろ違うことがたくさんあるのに、おれはずいぶん共感しながら読んだ。
それは文学の力だろう。
この作品は事実でもフィクションでもない、その中間くらいになったような気がする。それにしても、これを文学といえるのかどうか。もの書きについて考えてみる。わたしにとってものを書くということはどういうことなのか?を。冒頭と中間と最後、三度も同じ文章が出てくる。
出版の10年後の2005年、日本語訳が出るに際して書かれた「日本の読者のみなさんへ」にはこんな文章がある。
小説というのは、互いに知らぬ者同士の間をたゆたいながら流されていく、帆船のようなものだと思います。その帆船に乗っているのは人間の物語です。帆船に乗っているさまざまな物語は、見ず知らずの人々の心の中をたゆたいながら、誰かを愛する心を抱かせたり、過ぎ去ったことを懐かしく思わせたり、忘れていたことを思い出させたりしたうえで、これからどのように生きていくべきかを、朧気ながらも悟らせてくれる、、(略)こと俺に関する限り、作者の思いは十分以上に果たされたと思う。
この作品の中の愛と労働と希望と心の傷などが、みなさんの気持ちをいささかなりとも揺り動かすことができたらうれしく思います。揺り動かされることによって、自分ではない他人の人生、自分の世界ばかりではない他人の世界に向けて心が開かれるならば、作家としてそれにも増して幸せなことはないでしょう。
俺は20歳下の韓国の田舎の女の子が作家になるという、全く他人の人生に心が開かれた、感動をもって。
韓国という知らなかった世界を以前よりずっと身近に知ることができた、驚きとともに。
忘れていたことをたくさん思いだすこともできた、涙とともに。
これから、もっと丁寧に生きていこうと悟ることもできた、ような気がする。
一人の散歩だから階をあがってみた。
「他人の世界に心を開く」ということは自分の悩みや苦しみを軽くしてくれるということに気づかせてもらったことを感謝しながら。
本作に出てくる、リー・オスカーのハーモニカ、もっともあたしはこれを消して、チエット・ベーカーが死の直前に歌っているDVDに変えるのだが。
安 宇植 訳
集英社
これが頭から離れなくなりました。
この本、ぜひ読みたいです。お教え頂き感謝です。