俺は故郷に冷たいようだ 映画「湾生回家」
2016年 11月 17日
彼らのほとんどは台湾にとどまることを許されず日本に引き揚げた。
日本人だが故郷は台湾、彼らの望郷の念は俺が故郷・長野を想うよりはるかに強そうだ。
いくら何度も訪問する(俺が長野に行くよりずっと頻回)といっても、もはや自分の国ではないということが、喪失感とあいまって郷愁を強めるのかもしれない。
日本に住んだ期間の方がずっと長いのに、自分は「異邦人」だとまでいう。
何十回も台湾を訪問して旧友を探す。
多くが亡くなっている。
台湾の人たちも懐かしそうに迎えてくれる。
日本人の母によって台湾人の養子に出された女性の家族が岡山にあった祖母(曽祖母)の墓を見つけるエピソードはとくに感動的だ。
登場する人たちがとても魅力的なのはそういう人を選んだからというだけではないような気がする。
悲劇の半生に耐えて故郷や家族を思い続けたことがそういう人間を作ったのではないか。
俺は二歳のときに朝鮮から引き揚げてきたけれど、ほとんど朝鮮に故郷意識をもたない。
亡母を釜山に連れていって日本人学校(当時)を訪ねたことを思い出す。
タクシーの運転士が、「もういいです」という母を押し切って職員室に上がり込んで先生と話をしたら、授業中だった日本語のわかる先生を呼び出してくれた。
その先生が学校の記念館を案内してくれて、、階段をあがっていったら、「あ!あれよ!」母が叫んだ。
母の教室が映っている写真があったのだ。
そのあと教頭先生とも話をしたっけ。
あのときの母の喜びを思い出した。
俺も少しは親孝行をしたと思うとちょっとほっとする。
女将さん(おれと同い年)の故郷・羽後本庄の実家から送ってきたのだという。
ハタハタの塩焼き(ブリコがたくさん)を食う。
もう少ししたらたくさん送って来るから、そのときは電話して教えてやるという。
秋田はもう故郷みたいな感じがする。
岩波ホールは行ったことないけど。
秋田出身の女将さんの居酒屋、saheiziさん、いい所見つけましたね^^。
お母様の想いを射止めた saheijiさん
お母様はどんなにか嬉しかったことでしょう
思い出します
兄と二人で父が若いころ 新婚時代をすごした
南の南信州 今なら阿智村でしょうか そこを訪ね歩いたことを
父は大きな声を出してあれこれ言っていました
母は新婚時代の事をぽつりぽつり話しました
人間の足に例えられるのも分かりますね。
神保町も時代の波に洗われて、ラーメン店やファーストフード店ができるようになりました。
私は裏手のすずらん通りで飲食をします。
たとえば「揚子江菜館」の山を模したカタチの冷やし中華です。
それはお母さんも御苦労されたのですね。
先生をされていたのですか。
友人一家もお父さんがソ連に抑留されて、お母さんが5人子供を連れて引き揚げてきたときは、藤原ていさんみたいに大変だったそうです。宮尾登美子さんもそうだったのですね。
そんな方々もすでにこの世を去ってしまわれましたね。連れられた子供にはその記憶が恐ろしいまでに残っている人もいるでしょう。
亡妻の母は満州から4人の子供を連れて帰国、いっそ何人かは向こうの人に預けようかとすら思いつめたそうです。
無事に日本に帰りつけないかと思ったそうです。
義姉は当時10歳くらいでしたから、いろんなことを覚えていたはず、もう亡くなったので聞くすべもないのですが。
映画や小説に出てくるようなドラマチックな日々だったのですね。
この頃ネットでばかり買い物していますが…。
わたくしの故郷は上州の地方都市ですが、バイバスができ、家の周辺もすっかり変わっていますし、商店街はシャッター街になっているし、
時々、母の見舞いに行くと、浦島太郎のような気分になります。
故郷って記憶の心象風景かと思う時があります。
大根を収穫するこの時期、またがり大根はとっておいて、大黒様のお供えにするのです。
昔、おなかを空かせた大黒様が、畑で大根を収穫中のお嫁さんに食べさせてほしいと頼んだところ、お嫁さんだから黙ってそんなことはできない、でも、これなら、と差し出してくれたのがまたがり大根だったとか。
台湾には一度だけ行ったことがあります。
山の集落で、とても暖かく迎えていただいて胸が一杯になりました。
断片的にしか語ってくれませんでしたねえ。
母方の祖父は台湾に勤務していました。祖父の話は私が幼かったせいもあり「おとぎ話」みたいなものでした。