「なにかを作り出す行動、健全さと希望」それが必要だ 長谷川宏「日本精神史」その20
2016年 11月 14日
なんか嬉しい、トッドの新作が出版されているから、これは買おう。
子どもの2キロランニング、はあちゃんもこういう持久走をするといいのだが、あの子は瞬発的な運動ばかりなのだ。
いつもチエックする木(名前?)、心なしか前日より赤くなっている。
もっと遊んでやればよかった。
1180年12月、平重衡による南都焼打ちで、東大寺45メートルの大仏殿と15メートルの大仏が凄惨ななかにも不思議な美しさを感じさせる紅蓮の炎をあげて焼けおちる。
乱世、末世、濁悪の世だ。
しかし、その半年後、朝廷は東大寺の再建に向けて動き出す。
復興事業の中心を担ったのは勧進聖の重源、そのときすでに61歳であったが、精力的に資金調達の旅に出る。
ついで、大仏殿の再建にあたっては多数の巨材の調達という難事業のために遠く周防の国が東大寺造営料国とされ、重源が国守に任じられる。
重源はみずから杣山に入り、長さ40メートルに及ぶ巨木の伐採と運搬を指揮した。事業の大きさに見合って重源の行動エネルギーも増大していくもののごとくで、材木の運搬には、岩をくだき、山路を開き、谷にめがけて材木をすべり落とし、川を利用して材木を流し、浅瀬には関水を設けて流れをよくし、瀬戸内海へと流しこんだ。瀬戸内海は要所の港湾を整備して運搬の便を図り。大阪湾まで運んだ。そこから淀川をさかのぼり、木津から陸送に変え、奈良坂を越えて奈良へ向かった。志ん生が落語「黄金餅」で金兵衛が西念の遺骸を下谷山崎町から麻布絶口釜無村の木蓮寺まで運ぶ道筋を一気に言い立てて、「ずいぶんみんなはくたびれた、、アタシもくたびれた」というのだが、重源さんはもっとくたびれた。
重源が杣山に入ってから9年後、1195年に大仏殿は完成、頼朝(終始積極的・具体的な支援を続けた)も参列して再建供養が行われた。
なしとげた事績の大きさからしても、彫像に見られる自信に満ちた断固たる佇まいからしても、行動の人・重源はまさしく時代の求める人だった。求められてその行動力が格段に広がりと深みを増し、行動のスケールが自己増殖的に拡大していったのが東大寺再建の大事業だった。重源の行動力に引き寄せられ、さまざまな形で再建の事業を共に担った多くの人びとは、それぞれがその行動において新しいなにかを作り出しつつあるという充実感に浸っていたにちがいない。行動が行動と結びつき、行動のなかで共通の目標に向かっていることが実感できることは、不安を抱えて暗い日々を生きることとは別のことだった。なにかを作り出す行動には健全さと希望があり、そして、健全さと希望は絶望の時代を生きる精神がなによりも必要としているものだった。なにかを作り出す行動、健全さと希望、今の世界にも必要だと思う。
若かったためか、
紅葉などの季節の変化は、
ほとんど感じませんでしたが、
長野に来て、
極端な季節の変化があると、
だんだん敏感になってきました。
>なにかを作り出す行動、健全さと希望、今の世界にも必要だと思う。
その通りだと思います。
saheiziさんのおばあさん、お母さんが歌を詠まれることは作り出すことで、みんなに感動を与えています。
私は長野に住んでいた子供のころはあそこがあんなに美しい土地だということに気がつかなかったです。