死刑廃止を

日曜日の朝は海外ニュースをやめてNHK衛星3チャンネル「晴れときどきファーム」を見ることが多い。
田舎の民家を借りて畑や田んぼでいろんな植物を作り、それを使った料理もしてみせる。
植物だけでなく次回は錫を使った食器を作るらしい。
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なんの主体性もなく、街を歩いて「おいしそう!」「たべたあい!」「おいしい!」を連発する番組に登場するタレントたちと顔の輝きが違うのが見て快い。
同じタレントがこの番組のゲストになると普通の健やかな青年男女らしくなる。

今日はヤマユリを掘って、ユリ根とひき肉のシュウマイ、ゴーヤのクリームチーズサラダ(近所のおじさん特製の鰹節かけ)、ミニトマトなどのピクルス(これは漬けるだけ)を作って、旨そうに食っていた。

ああいうのを見ていると、俺のこれまでの人生になかった・これからも絶対にないだろう、「みんなで楽しく力を合わせる田舎暮らし」ってやつが途方もないユートピアに見えてくる。
なにをするにつけ下準備に後片付け、広い家や庭の掃除や手入れなどがたった一日だけでもできやしないだろうとは思いはするが。
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日弁連が10月の人権擁護大会で「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言案」を提出するという。
死刑の廃止にまで踏み込むのは初めてだという(遅くないか!)。
冤罪がはっきりして再審無罪や再審開始が珍しくないし世界でも死刑制度があるのは少数派であり、制度があっても凍結している国も多い。
トルコが死刑制度を復活しようとしてEUから、そんなことしたら仲間に入れてやらないと言われている。
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(散歩中に雨が降り出して濡れたサンチ)

先日から紹介している藤井貞和「日本文学源流史」は、「犠牲の詩学」という章立てがあって、
およそ国家成立の当初からあり、体制が<犠牲>を求める仕方をいまに残存させているのが死刑、しかも死刑は、初期のそれ以来、時に実質的中断を見せながら(平安時代だ)、延々と続く。今に生きる古層文化である、、
として、死刑についての考察をしている。

6世紀、人類の叡智として人身犠牲をやめさせ、それに代わる擬制へと古代社会が動いた時、仏教的な布教があり、同時に民俗信仰ないし古神道が成立した。
そのなかで、戦争による死と死刑のみが国家的規模の”習慣”として生き延びさせられた。
「生き延びさせる」というのは、あらゆる手立てを尽くして、それらが人身犠牲ではないかのように人々の意識から遮断してきたということだ。
「貴い犠牲」という際どい比喩表現で本性を隠ぺいしてきたけれど、実際は比喩ではなく、まさに人身犠牲そのものだ。
国家が人身犠牲を必要としてきたから戦争死および死刑がなくならないのであって、その逆ではない。
犠牲を求める国家が死刑囚を必要としたのだ。
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古代や中世ではなにか邪悪なものが身体に入って来て犯罪を犯させたとして、身体を損壊することがあったが、近現代ではそういうことを信じることはできなくなった。
そこが古代や中世とそれ以降との決定的な差となっていることを現代が了解するならば、人身犠牲をやめさせてきたという人類史的成果から見る時、かれらの身体を使って人身犠牲を国家がするという現状は、ただちに廃止する必要がある。思想的に死刑は終わらねばならない。
そのことは戦争死を終わらせなければならない、ということと同断だ。国家の名によって兵を徴し、人身犠牲させる、という戦争は終わるか。死刑と戦争とは人身犠牲を原型とすることにおいて同質異像としてある。
「死刑学」が必要だ、と藤井は逸見庸の言葉を引く。
俺は、単に「遺族感情が、、」で人をくびり殺すのには賛成できない。
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仏教観が人身犠牲をやめさせたことは、仏教にその反対給付として”死穢”を引き受け囲い込み”浄化”に従事させることになった。
被差別者を囲い込み、かれらが霊的に解放されることは一面で差別を生むことにならないか。
それが古代における祭祀の発生だったのではないか。
その祭祀のひとつ成年儀礼が「いじめ」の源流(とくに軍隊の新兵教育!)ではないか。
藤井節は難解にして刺激的だ。
Commented by jarippe at 2016-09-04 12:05
北朝鮮のそれは最近凄いですね
Commented by unburro at 2016-09-04 12:31
死刑廃止には、全面的に賛成です。
主な理由は、死刑は犯罪の抑止効果は無いこと、
被害者の命は犯罪者の命で代償出来ないと思うこと、
そして、冤罪を含め、人が人を裁くことに限界があること、
などです。
でも、それを歴史や宗教の文脈で説明するのは難しいなぁ
と思います。そして、そこに戦争死が入ってくると、もう私の頭は
オーバヒートしてしまいます…
Commented by wawa38 at 2016-09-04 21:19
難しいことは解らないながらも、
遺族感情をくみ取りすぎの判決は
間違っていると以前から思っています。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-04 22:02
> jarippeさん、まさに国家が死刑を欲しているのですね。
応報でもなければ、罪の重さでもない。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-04 22:10
> unburroさん、祭りにも人身犠牲の擬制が遺っていますね。
擬制にしたのは人類の進歩でしょう。
近代以降の話にすると水掛け論になってしまうというのが藤井の論です。
さっき読んでいた中国の現代小説にも祭りで罪人の役割をする人が選ばれて首を差し伸べると、その代わりに動物が斬られるというシーンがありました。
権力が殺すべき罪人を必要としたのでしょう(北朝鮮のように)。

Commented by saheizi-inokori at 2016-09-04 22:18
> wawa38さん、悪い政治によって殺され、先進国(特にアメリカ)の強欲と野放図な消費によってもたらされた気候変動によって殺される人がどれほどいるのか、その遺族は怨みを晴らせません。
戦争然り、犯罪だけが応報を当たり前とするのはおかしいとおもいます。
Commented by at 2016-09-05 02:46 x
私は今からでも、田舎で一から始めたいよ、

携帯、ゲームのフリーダウンロードの宣伝を見て思った。
どれもこれも、陣地取りの戦いとか、ゾンビ殺しとか、
こじゃぁ、終末に向かってるの当たり前やわ、
Commented by sweetmitsuki at 2016-09-05 06:07
世界的な潮流をいうのでしたら、地政学的に見て日本の近隣諸国はみんな死刑を実行しているのですから、日本もアジア基準に倣うべきではないのでしょうか。
Commented by j-garden-hirasato at 2016-09-05 06:35
難しい問題ですが、
重大な犯罪を犯した人間が、
心を入れ替えるなんてこと、
ありえないと思っています。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-05 10:02
> 蛸さん、私たちの子供のころも陣取りとか、相撲とか、レスリングみたいな「戦う」遊びはよくやりました、チャンバラも。
でもそれは肉体と肉体のぶつけ合い、運動みたいなものでした。
今子供たちが夢中になっているのは頭脳のなかで殺し合うのですから、ちょっと違いますね。
肉体の痛みを知らないのも怖いです。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-05 10:05
> sweetmitsukiさん、なにもアジアに倣わなくてもいいのではないかと思います。
憲法9条を大事にする思想と戦争死や死刑を廃止する思想とは通底するのではないでしょうか。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-05 10:10
> j-garden-hirasatoさん、心を入れ替えなければ殺せ、というならば私も牢屋に入れられてもしょうがないです。
重大な犯罪かどうかも判定もいい加減だと思いますよ。
冤罪、量定、法律、取り調べ、、かなりいい加減だと思います。
Commented by antsuan at 2016-09-05 16:06
冤罪を助長する刑事訴訟法の改悪に手を貸しておいて、死刑廃止を提言するなんて、そこに正義はなにもありませんね。
日弁連は責任逃れをしたいだけなのでしょう。
日教組や日弁連って、WGIPの毒そのもののような気がします。
Commented by saheizi-inokori at 2016-09-05 21:33
> antsuanさん、日弁連は話のきっかけ、私は死刑廃止を言いたかったのです。
日弁連や日教組が今どういうことをしているか、ほとんど知りません。
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by saheizi-inokori | 2016-09-04 11:52 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(14)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori