死刑廃止を
2016年 09月 04日
田舎の民家を借りて畑や田んぼでいろんな植物を作り、それを使った料理もしてみせる。
植物だけでなく次回は錫を使った食器を作るらしい。
同じタレントがこの番組のゲストになると普通の健やかな青年男女らしくなる。
今日はヤマユリを掘って、ユリ根とひき肉のシュウマイ、ゴーヤのクリームチーズサラダ(近所のおじさん特製の鰹節かけ)、ミニトマトなどのピクルス(これは漬けるだけ)を作って、旨そうに食っていた。
ああいうのを見ていると、俺のこれまでの人生になかった・これからも絶対にないだろう、「みんなで楽しく力を合わせる田舎暮らし」ってやつが途方もないユートピアに見えてくる。
なにをするにつけ下準備に後片付け、広い家や庭の掃除や手入れなどがたった一日だけでもできやしないだろうとは思いはするが。
死刑の廃止にまで踏み込むのは初めてだという(遅くないか!)。
冤罪がはっきりして再審無罪や再審開始が珍しくないし世界でも死刑制度があるのは少数派であり、制度があっても凍結している国も多い。
トルコが死刑制度を復活しようとしてEUから、そんなことしたら仲間に入れてやらないと言われている。
先日から紹介している藤井貞和「日本文学源流史」は、「犠牲の詩学」という章立てがあって、
およそ国家成立の当初からあり、体制が<犠牲>を求める仕方をいまに残存させているのが死刑、しかも死刑は、初期のそれ以来、時に実質的中断を見せながら(平安時代だ)、延々と続く。今に生きる古層文化である、、として、死刑についての考察をしている。
6世紀、人類の叡智として人身犠牲をやめさせ、それに代わる擬制へと古代社会が動いた時、仏教的な布教があり、同時に民俗信仰ないし古神道が成立した。
そのなかで、戦争による死と死刑のみが国家的規模の”習慣”として生き延びさせられた。
「生き延びさせる」というのは、あらゆる手立てを尽くして、それらが人身犠牲ではないかのように人々の意識から遮断してきたということだ。
「貴い犠牲」という際どい比喩表現で本性を隠ぺいしてきたけれど、実際は比喩ではなく、まさに人身犠牲そのものだ。
国家が人身犠牲を必要としてきたから戦争死および死刑がなくならないのであって、その逆ではない。犠牲を求める国家が死刑囚を必要としたのだ。
そこが古代や中世とそれ以降との決定的な差となっていることを現代が了解するならば、人身犠牲をやめさせてきたという人類史的成果から見る時、かれらの身体を使って人身犠牲を国家がするという現状は、ただちに廃止する必要がある。思想的に死刑は終わらねばならない。「死刑学」が必要だ、と藤井は逸見庸の言葉を引く。
そのことは戦争死を終わらせなければならない、ということと同断だ。国家の名によって兵を徴し、人身犠牲させる、という戦争は終わるか。死刑と戦争とは人身犠牲を原型とすることにおいて同質異像としてある。
俺は、単に「遺族感情が、、」で人をくびり殺すのには賛成できない。
被差別者を囲い込み、かれらが霊的に解放されることは一面で差別を生むことにならないか。
それが古代における祭祀の発生だったのではないか。
その祭祀のひとつ成年儀礼が「いじめ」の源流(とくに軍隊の新兵教育!)ではないか。
藤井節は難解にして刺激的だ。
主な理由は、死刑は犯罪の抑止効果は無いこと、
被害者の命は犯罪者の命で代償出来ないと思うこと、
そして、冤罪を含め、人が人を裁くことに限界があること、
などです。
でも、それを歴史や宗教の文脈で説明するのは難しいなぁ
と思います。そして、そこに戦争死が入ってくると、もう私の頭は
オーバヒートしてしまいます…
擬制にしたのは人類の進歩でしょう。
近代以降の話にすると水掛け論になってしまうというのが藤井の論です。
さっき読んでいた中国の現代小説にも祭りで罪人の役割をする人が選ばれて首を差し伸べると、その代わりに動物が斬られるというシーンがありました。
権力が殺すべき罪人を必要としたのでしょう(北朝鮮のように)。
戦争然り、犯罪だけが応報を当たり前とするのはおかしいとおもいます。
でもそれは肉体と肉体のぶつけ合い、運動みたいなものでした。
今子供たちが夢中になっているのは頭脳のなかで殺し合うのですから、ちょっと違いますね。
肉体の痛みを知らないのも怖いです。
重大な犯罪かどうかも判定もいい加減だと思いますよ。
冤罪、量定、法律、取り調べ、、かなりいい加減だと思います。
日弁連は責任逃れをしたいだけなのでしょう。
日教組や日弁連って、WGIPの毒そのもののような気がします。