横浜馬車道にヒグラシが鳴き始めた 柳家小満んの会
2016年 07月 22日
みごとな彫り物のオッサンが一生懸命アシを洗っている、その背中を眺めながら熱い湯に入る。
つるつるにそり上げた前座の小はぜ「てんしき」がとてもよかった。
知ったかぶりの人に道を尋ねると大変だ、と「角の山田電気やを右に曲らないで、その先をたらたら下っていくと小路があるからその突き当りを、、そうすると左側に交番があるからそこで訊いてくれ」とやってみせるのが、
昔、大曲の駅前交番で払田柵跡(ほったのさくあと)への道を尋ねたらお巡りさんが8人ほど集まって来て、チラシの裏に略図を交々「そうでね、こっちさ」「どれどれ、みせて見ろ」と描いてみせ、「ここさ、まっすぐいぐと酒屋があっから」「はい」「そこを右に曲がらないで、もっとまっすぐ行って、、」親切で頓珍漢で楽しかったことを思い出す。
つまり、そういうゆったりした、懐かしさを感じさせる、いい語りだった。
水無月のみかん見せたり氷室守り将軍家は富士宮浅間神社の氷室から氷をきりだして6月1日に将軍の手もとに届ける習わしだった。
田道間守(たじまもり)が垂仁天皇に不老長寿の薬を探せと言われてやっと見つけた橘の実、届けたときには天皇は亡き人になっていた。
七日七晩嘆き悲しんで死んでしまったという忠臣田道間守の歌、俺は知らなかった。
その橘の実から紀州蜜柑ができて、これは冬の果物、11月8日のふいご祭りにミカンを撒くのだ。
その紀州蜜柑を台風をついて、経帷子を着せた命知らずの船乗りたちに江戸まで運ばせた五十嵐(のちの紀伊国屋)文左衛門、とてつもない値をつけて大金持ちになる。
一代で百万両を稼いで二代目が一代で消尽し遺したのは「沖の暗いのに 白帆が見ゆる あれは紀伊の国 みかん船じゃえ」のかっぽれ一つ。
とまあ、ここまで10分、ミカン事始めのマクラ、これが小満んを聴く楽しみ。
土用の盛りにミカンを食わないと死んでしまうという若旦那に、いくらでも買ってきましょうと、今の季節もわきまえずに安請け合いをした番頭が、もし買ってこれずに息子が落胆のあまり死んでしまったら、おまえは「主殺し、逆さ磔になる」と脅された。
奇跡的に果物問屋の蔵の中から見つかった、たった一つのミカンの値。
千両と吹っ掛けられてたまげた番頭が主人に相談すると、「息子の命と思えば安いものだ」。
若旦那は千両と聞いても驚かない、番頭は若旦那がひと房食うたびに目を丸くして「あ、百両、、三百両!」、「うるさいなあ」ホラミロ嫌われた。
七房食って三房残す、「これは両親と祖母に」。
番頭、「俺には食えと言わなかったな」「これが、三百両かあ、来年のれん分けするときだってせいぜい四十両くらいしかもらえない」「えい、思いきって長い命を短く生きよう」と三房もって行方をくらました。
交換価値と使用価値、経済学入門。
マクラの文左衛門伝説が見事に効いた。
小満ん「那智の滝」
袈裟を打ち我が身を打つは那智の瀧瀧くらべをマクラにして、よからぬ懸想を切り抜けるために偽計をもって自らの命をさしだした袈裟御前を殺した遠藤盛遠が出家して文覚上人となるまでの長谷寺、那智の滝と荒行に励んで体験する仏教説話。
ちょっと聴き取りにくさもあってつまらなかった、縁無き衆生なりき。
小満ん「天災」
向こう見ずそうかといって後もみず三度の飯より喧嘩が好きな江戸っ子八五郎が、心学の名丸先生によって、腹が立つことが起きたらすべて「天災」と考えてやり過ごせと教えられて感心・納得?熊さんに中途半端な受け売りをする滑稽噺。
天災と、そう思えないのが我ら縁なき衆生なんだけどな。
いいテンポ(少し早すぎるくらいの)でハハハハと(声には出さずに)笑っているうちに二十五分が過ぎた。
さいごに親方夫妻と乾杯、ビールを泡立てて注ぐのは俺の仕事なのだが、ちょっと泡が少なかつたワア。
東京湾のアナゴ、食べちゃいましたね。
そのネタで、自分のブログネタ、探してたとこなんですよ。
待っててください。今にぎゃふんと言わせてあげますから。
トランプのニュースを見ていたら、あの男は日本に対して
「占領未完」と思っているのだろうか、などとつまらない洒落が浮かびました。
都知事選のニュースも含め、ストレスがたまるばかり。
芸達者の落語を聴いて、旬の肴に楽しい話題・・・ストレス解消には、これしかない!
多かったのはニュージーランドでしたか。女性も多かったです。もちろん欧州では良く見かけます。漢字なんか描いている人もいますね。
足を洗ってない人は内風呂のあるところに住んでいるのかもしれない。
さいきんは普通の人の彫り物やプリントが増えてきました。
読んで溜め息をついております。
禁酒生活まだ3日目…いつまで続くドライな日々なのか…
まだ、呑みたいなぁ、とは思いませんが、
全身麻酔で全身リセットの、後の1ヶ月ドライ、などしたら、
性格変わってしまうんじゃないか、と心配している驢であります。