司馬が言いたかったこと 慕夏洞の祖「沙也可」のこと 司馬遼太郎「韓のくに紀行」④
2006年 01月 10日
清正の部下として参戦した若干22歳の将軍が上陸するとすぐに朝鮮軍に降伏した。その名を沙也可。降伏にあたり「われ中華を慕うこと久し」と述べたと言う。それらのことは「慕夏洞文集」という朝鮮の古文書に書かれているが日本側の史料はない。
沙也可は日本軍と戦い、鉄砲について朝鮮に教え、北方民族や女真族の侵略に際しても大いなる武勲を挙げる。李王はこれを賞し金姓を与え高い官職も贈る。金忠善と改名した沙也可は名利を求めず慕夏洞(今は友鹿洞と呼ばれている)に隠棲し長寿を全うする。
司馬は沙也可の実在は信じるものの降伏の動機について疑う。
儒教を根本原理・原則とし土地公有制の上に立つ官僚制国家である中国と朝鮮に対し、日本は多神教かつ武士による土地私有制である。
それが、彼らから見ると日本=倭(チビ人種)=礼も義も知らない”あてはまらない”という感じを与える存在とする。だからこそ、彼らに出来ない国を創ってこれたこと。
対馬は朝鮮と日本の間にあって、むしろ朝鮮からの米などでようやく命をつないでいた。対馬にしてみれば秀吉の全く名分も実益もない朝鮮派兵は恩のある朝鮮への裏切りにすらなる。大いに迷惑かつ憎むべき行為であった。
沙也可とは対馬の出身ではなかったか?
司馬が友鹿洞を訪ねるところがこの本のクライマックスだ。
そこはあたかも日本の田園だった。朝鮮特有の禿山ではなく植林された山に三方を囲まれ、だから、そこから流れる水を使った田が広がる。
驚くべきことに70戸の全てが両班(ヤンパン)だった。村民全員が貴族階級!これは金忠善(沙也可)の大功によるものではないだろうか?
村人は次第に集まりそのひとりに問えば「私どもの先祖は日本人である。李王のために武功をたて、忠臣であった」と答える。三重県・名張に居た男も名乗りを上げる。400年以上も前に渡来した日本人青年の末裔とそこを訪ねた司馬一行の対面!感動の場面だ。
やがてひとりの威厳のある老人が現れる。司馬もすすめられなかった柳の下の(それこそが長老の席と定められているような)切り株に座る。事の次第を通訳からきいた翁は低い声で
それはまちがっているゆったりとした朝鮮語で言う。それは、というのは、そういう関心の持ち方は、という意味だ。
こっちからも日本(むこう)へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない。司馬はそのにべもなさが可笑しく、声をあげて笑ってしまう。老翁も司馬の顔を見て微笑する。
直截な言い方は慎重に避けているが、この紀行文で司馬が一番言いたかったことはこのひと言に表われていると思う。俺が最初に「書かれたのは30年以上も前だが書かれてあることは今なお、というより今一層我が心に響いてくる」と書いたのはその故だ。靖国参拝に固執している場合か?
韓のくにから帰った司馬は近江・蒲生にある墓を訪ねる。それは新羅と戦った際に天智天皇に支援を乞い結局は破れた百済の英雄・鬼室福信の一族、鬼室集斯の墓だ。百済支援に向かった日本水軍は白村江で壊滅的敗北をとげ百済も滅亡する。その際敗残の百済人や亡国の氏族を国を挙げて受け入れた天智政権のことを司馬は高く評価する。「日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に推すべきだ」とまで言って。
日本に渡ってきた百済の人びとが、その後の統一国家・日本の文化をつくる大きな手助けをしてくれる。鬼室集斯こそ日本初の官僚養成のための大学総長(「学識頭」)だった。
今日、本屋を歩いていたら「沙也可 義に生きた降倭の将」(江宮隆之著)という小説を見つけた。最初の数ページを読んだ。
韓国併合前夜(1906年)、初代朝鮮統監府統監・伊藤博文が「沙也可」のことを聞いて、そんな事実があったら韓国併合に支障が出るから「事実を調査しろ」と命ずる。命じられた幣原坦(後の総理大臣・幣原喜重郎の兄)は「事実ではない」と答える。
写真はソウル・「石坡廊」上・門 下・16品のコースの5番目ボサム(豚肉でキムチを巻いて食べる)。ボサムキムチといえば昔我が家でも作っていた、白菜の葉一枚づつの間に栗、ナシ、大根、にんじん、たらこなどを入れて漬けたものと思っていたが・・どうもこの店の日本語メニューはちょっと?だ。女性スタッフのひとりが上手な日本語を話すから褒めたら「嬉しくて今晩眠れない」と喜んだのだけれど。 宮廷料理とも違う。親しみやすいメニュー、ひとつづつ丁寧に料理されている 量が少ない(写真で4人前)しさっぱりした味だが流石に最後はかなり・・。
幣原「担」は「坦」ですね。
幣原坦は甲府1中のストライキを鎮圧するために文部省から校長として派遣され、すぐその後朝鮮総督府へ出向します。
その後任として甲府1中の校長に任命されたのが、クラークの弟子であった大島正健でした。
この大島校長の薫陶を得て不良少年から立ち直ったのが、石橋湛山です。
これはあまり知られていないことですが、同じころに浅川伯教(のりたか)が甲府1中に在学していました。
この浅川伯教とその弟巧(たくみ)が、後に柳宗悦に朝鮮の工芸と美への目を開かせるのです。
江宮隆之はこの二人の兄弟を主人公に、各々『木履の人』『白磁の人』という小説を書いています。
ご存知でしたらすみません。念のためです。
中村好文『意中の建築』、上巻を読み終わりました。
本当にいい本を教えていただいて、大感謝です。
どの建物も訪ねたくなりました。
下巻が楽しみです。
今にして思うと、ぼくがハフェマウルを知ったのも中村好文さんの『芸術新朝』の連載だったような気がしてきました。
本当にありがとうございました。
しばし雑談した事がありました。
祖先は、秀吉時代に彼らが連れ帰った陶工の方なんです。
白磁は、彼らの考案だし、以降、九州はもちろん、西日本までに、彼らの生活容器としての磁器の影響が強くあるんですね。
もう歴史の中に、日本と朝鮮の生活文化が、混血してすり込まれて
いるんだという事を、当時感銘的に思ったことがありました。
施政者が、どうも摩擦熱だけを取り出して、動いているようで、このところ
危なくて仕方がないように思います。
TB&コメントありがとうございますm(__)m
コメントが遅くなってしまってごめんなさい。
ここの投稿を読みはじめたら中途半端にコメントを書くのもお恥ずかしいかと。
読んでからきちんとコメントさせていただきます。
私は韓国語の勉強はまだまだ初心者で歴史の勉強もまだまだです。
saheizi-inokoriさんはハングルは出来ますか???
取り急ぎご挨拶まで。
うっかりすっかり忘れていたんですが、七剣で一度コメントしていましたね!
見たことがあるんだよな。。。なんてここにきて一生懸命考えてしまいました。
失礼いたしました。
韓国語は平仮名に非常に良く似ているので規則さえつかめれば簡単ですよ。
是非是非チャレンジしてくださいませ!