翻訳家に改めて感謝 乙川優三郎「ロゴスの市」
2016年 04月 01日
学校で作ったものだろう、一人ひとりが卒業証書を貰う巻、呼びかけと「仰げば貴し」「3月9日」の歌の2巻、中学三年間のいろんな場面の巻の全4巻、ぜんぶ見るのはけっこう時間がかかる。
女の子はほとんど全員着物と袴、大人っぽく・美人になって見違えるようだ。
今の子はみんなそうなのだろうか、合唱がうまい。
呼びかけは先生たちへのサプライズだ。
それが、教室、学芸会、遠足、旅行、運動会、研究、、さまざまな活動を積み重ねて行くうちにどんどん成長していく。
親や先生たちのおかげと感謝のほかはない。
それにしても、そういう場面を集めたのだろうが、笑顔笑顔。
陳腐な感想だが、世界中の明日の命も保証されていないような子供たちのことを考えて、つくづく彼らは恵まれていると思う。
どうか、それを世の中にお返しするような人生を送って欲しいものだ。
優れた編集者に認められ、プロの翻訳家として成長していく。
女子学生は通訳の道を選び、国際会議などの同時通訳者として活躍する。
二人が言語の世界の頂を目指しお互いに切磋琢磨していく(言葉について丁々発止のやり取りが面白い)修行の物語であり、二人の切ない恋愛の物語だ。
もっともふさわしい表現を求めて悩み、考え尽す時間があり、あとから修正もできる翻訳。
生の声を聞き、数秒の猶予も許されずに正確な言葉に移し替え、修正もできない同時通訳。
およそ対照的な言葉の仕事だが、どちらにも原語だけでなく日本語に対する深い知識とセンスが求められる。
言葉だけでなく、時代・風土、書き・語る人に対する理解、幅広い教養も求められる。
日本的な思考を排除すべし、新しい頭を作れ、編集者の叱咤。
単身、渡米した女の学習の場所は警察署だった。
「あそこなら東洋人の女がじっと座っていてもおかしくないし、いろんな英語が聞けるから」
犯罪者の文法のおかしい英語も教材だ。
もし原文にない「汽車」を主語に据え、<国境>を切り捨てた英訳をしたら川端の文章ではなくなる。
対照的に井伏の「山椒魚」の冒頭は英語の構文そのもの、代名詞も続出する。
川端も井伏も美しい日本語、日本語は変幻自在なのだ。
英文を和訳するときに、この変幻自在ということは武器にもなるし落とし穴にもなる。
ある日、突然、遠い記憶や夢の中にしかない言葉が降りてくる、母語の魔術だ。
彼が訳して好評を得たカナダの女流作家とフランクフルトの世界最大のブックフエアで初めて会う。
その作家と彼の会話。
「世界の現実は無数の人生のシャッフルで作られているような気がします。たとえ小さな島に生まれても大きな現実の渦に巻き込まれずにはいられません、文学とはそういう個々の人生を掬い上げて世界の一部であることを知らしめることではないでしょうか、言い換えるなら世界に響く声を持たない人の通訳です。」
「聞く人は自分もそうであることを知りますね、その瞬間、言語や人種の壁が消えます。」
「その通りです、言語は素晴らしいものだけど、排他的な側面もあります、風を通すことができるのは通訳と翻訳家でしょうね、作家はその原形を示すために苦しむ原始的な通訳かしら、」
隠居・俺が日々新たな世界に喜びをもって遊べるのは翻訳家が「風を通して」くれるからにほかならない。
表題をどう決めるかは売れ行きにもかかわる大事な問題なのだ。
ラヒリの本は「停電の夜に」となって、俺も読んでおもしろかったなあ。
言葉、翻訳文学に関心のある人にはとくにお薦めだ。
主人公が、図書館で”発見”して、「性根を据えて自分の日本語を磨くことに集中したい」という気持ちにさせた、芝木好子の「隅田川暮色」。
俺は未体験ゾーンだった、さっそく図書館に予約した。
(2003年12月、当時働いていた会社の社員向けメールに書いた紹介文です)
ロンドンに生まれアメリカで育った両親がインド人という著者は今33歳。若くして認められ多くの文学賞をとった。
独特の視点で人生の様々な断面を鮮やかな手つきで切り取って見せてくれる。それは固定されたひとつの視点ではなく、あるときは倦怠期の妻であり、多言語のインドで患者と医者の通訳をする男であり、カギっ子であり、マンションの門前に住むインド人のホームレスでもある。彼女の天才と出自があってこその芸だ。
“夫婦”がテーマになっている作品がほとんどだ。夫婦になるまではアカの他人(特にお見合い)として生まれて成長してきた二人が、誰よりも大事な存在としてお互いを必要としあうようになる。やがて意外な側面を発見して驚いたり、会話がなくなったり、不倫、、別離。様々な夫婦のありようが優れた絵画を見るように示される。独特の構図で。胸が締め付けられるようなシーンや言葉があります。今年の最後に紹介するにふさわしいホンでした。
早速、「脊梁山脈」に、昨夜からどっぷり浸かっています。
重複文化の狭間の中で自身を構築していきますね。
違った言語を読みながら本来自分の中にある教養を駆使して
新しいものを作り出す。。
風穴なのか架け橋なのか。。
サラ・デュナントの「女性翻訳家」は推理小説でとしては話は普通ですが、
主人公が幼い時にチェコ人の父とチェコ語を教えられて話すのは父が作った遊びの言葉だと思っていたと回想する場面が妙に心にしみたことがあります。
着物と袴は大学生の卒業とばかり思っていましたので、ちょっとビックリしました。
それだったら、急に大人びて見えるでしょうね。
でも、揃える親ごさんも大変ですね。
翻訳 文面をそのまま別の言葉に変えるって
変え方で意味がニュアンスががらりと違ってしまいますよね
通訳もいつもおもうんです
意志がそのまま訳されているのかなーって
今朝は、花冷え、10度でした。
でも桜並木の下を歩くのは楽しいなあ。
あれを誰かの翻訳で読んだらどうだったのか、つたない英語力で読むのではわからなかった楽しさがあったのかなあ、と思いました。
今は原文で読むなんてことは考えることもないです。
あの英語の勉強(よく出来たんですよ^^)っていったい何だったとも思うし、翻訳された文章の背後にある作者の思いを想像することがあるのは他言語を少しでも学んだことの良い影響もあるかと思います。
日本では大学が着物、今もそうだと思います。
レンタルだと腰を抜かすほどのことにはならないんでしょう。
目を丸くするくらいかな^^。
原作を読む場合にも作家の考えたこととは違う読み方をするし、なかに翻訳者がはいるとさらに変わっていきます。
「おれ」「ぼく」「わたし」「あたし」、、これだけでもまるで人柄が変わってしまう、翻訳の恐ろしさですね。
「ロゴスの市」も「東京暮色」も読みたいです。