万葉集に始まる「イクメン」と「酒は涙かため息か」 長谷川宏「日本精神史 その九 ~多様な主題、多様な表現」
2016年 02月 20日
シャンパンとオレンジジュースを背の高いグラスで呑む。
結婚披露宴の始まるのを待つロビー、華やいだ女性に似合う。
すっかりそういうことに縁がなくなったが今日も今頃着付けに忙しい人もいるのだろうな。
3月8日はミモザの日・国際女性デー、男性が女性に日頃の感謝の意をこめてミモザを贈るんだって。
そういえばイタリアのどこかでミモザの祭りをやっているのを見たな(テレビで)。
漢字で書かれた全20巻、およそ4500首の歌集、俺は斎藤茂吉の「萬葉秀歌」上下、これですらちゃんと読んでいない。
構成に一貫したところもない、混沌としたところに魅力があると長谷川は言う。
「万葉集」が長く読み継がれてきたことは、全体的構成の堅固さよりも部分と部分のつながりの妙におもしろみを感じる文学意識が、日本人の精神的特質としてあり、、
と、たしかに俺もそんな読み方をすることが多い。
モースシリーズなんてまさにそうだ。
舒明天皇の望国(くにみ)の歌、
「大和には 群山ありと
とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鷗立ち立つ
うまし国そ あきづ島 大和の国は」
こうして写していると、そのリズムと伸びやかさ・大らかさに気持ちが広がってくる。
国見をする天皇は個人ではなく共同体の意識を体現している。
こういう歌と安倍の空疎な「私が・私が」演説とを比べるのも愚か・無意味ではあるが、つくづく古代の健やかさ・幸福を感じる。
「万葉集」は「雑歌(ぞうか)」「相聞」のほかに「挽歌」を部立てした。
死の悲しみを三十一文字に凝縮して表現する形が出来上がったことは、精神史の観点からしても深く重い意味をもつといわねばならない。
謀反者として中大兄皇子に殺される有間皇子が自らの死を予感して詠んだ二首が「挽歌」の部の冒頭に置かれる。
それは権力者たちの争いに目を向けるのではなく、死へと追いやられる人間の内面を文字に定着させようとした点で画期的だ。
弟・大津皇子との生前の別れ、死を詠んだ大来皇女の歌は胸をうつ。
磯のうへに 生ふる馬酔木を 手折らめど
見すべき君が ありと言はなくに
そのような格闘は、一人の歌人に内面において演じられるだけでなく、歌が作られ、歌われ、享受される共同の場で、そして歌い継がれていく歴史的な伝統のなかでも演じられたものだった。
そうだったのか、歌人たちの共同の思いと共同の作業、そういう伝統がやがて連歌とか歌仙につながるのだろうか。
死の悲しみを歌に表現し互いに共有するという文化が作り上げられたのだ。
それ以後、共同の場における共同の観念や幻想の表現という面が弱まり、個の内面を表現する歌へと変化する。
「貧窮問答歌」、社会の矛盾を見つめ、日常語や卑語、俗語をも駆使した教養人・憶良。
彼の歌が多く取られていることが万葉集の幅の広さと懐の深さを示す。
大伴旅人、「酒を誉むる歌一三首」、いいね。
そのなかの
賢しみと 物いふよりは
酒飲みて 酔泣(ゑひなき)するし まさりたるらし
「酔泣」が一三首の内三首も出てくる。
「日本文学史序説」において加藤周一は、「酒は涙か、ため息か」を引いて、八世紀の貴族から一九二〇年代の東京市民に到るまで、わが「酔泣」の光輝ある伝統は、連綿として尽きることがなかった、と書いている。
長谷川さんは、酔って泣くのは生ぬるい処世法、中途半端な抵抗だとしつつ、その中途半端な思想性が一三首を一貫していることを、ユーモア・風刺として受け取れ、旅人の力量を示すという。
昨日書いた↓、片山杜秀が小津監督の映画について述べた、最後の五分まで無表情に、感情や思いを不機嫌に押し殺して生きていく、ってのにも通じる?
うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり
情(こころ)悲しも 独りし思へば
その前の二首とのハーモニー、うらさびし。
最終巻には「防人」の歌が多く採録されている。
東国の方言もあり、厭戦の歌もある。
万葉集は広く深い。
母の顔が・・・ボロボロで糸やテープで修理されたこの本
宝物のようにきっと母はどのページも
暗記できていたのでは・・・・・
病気になって短歌が作れなくなり
なんとか取り戻したい思いがあったのでしょう
裏紙に必死で写していたものです
歌を詠むこと 母の一番の生涯の楽しみを
病気で奪われてしまった母でした
結局読んで理解することは出来ても
自分で詠むことは出来ませんでした。。。。。
アララギに投稿していました
茂吉のことは何でも知っているみたいでした
ゴメンナサイ 思わず母の事でいっぱいになってしまいました
saheijiさんのこの写真が犯人ですよー