ブログで悪かったね 荒川洋治「日記をつける」
2016年 01月 30日
二子玉の蔦屋でつい買ってしまった本、「たいへん」おもしろかった。
(司馬遼太郎の「街道を行く」について)彼は時間通りにつけられた日記を、あるいは日記的な事実を、解体する。
紀行文という自分の文章をつくるために、時間をばらしていく。会話は現実の状況から離れ、そのなかに別の時間が、あるいは空想がはさみこまれるなどして、ひとつの文章が仕上げられていくのである。
だからこれは日記ではないのだ。でも日記と、普通の文章のちがいについて、語ってくれるのである。
書き写していると楽しい。もっと引いてみたいと思う。すみからすみまで、読みたくなるのだ。それが『富士日記』の世界。
といったぐあい。
そして日記とはどういうものか、どういう風につける人に役立っているかを説きあかす。
とちゅうにいろんな荒川語録がある。
人間は疲れると、文章のなかに「とても」とか「たいへん」とか「非常に」とか「いちばん」とか「ものすごく」などが多くなるのである。
とてもよくわかる。
テレビに出てくるリポーターたちがそういう言葉を連発する。
ものすごく疲れているのだろうな。
物でもない、心でもない。そのときどきの人の位置とでもいいたいものが鮮やかに見える。それはきっと人間にとって根本のものなのだ。物よりも心よりもゆたかなものにふれた気持ちになるのはそのためだろう。
ブログについても触れている。
ブログの日記の文章は、厳密には書かれていない。思うまま自由に書く。第三者のチエックは入らないので、
いやはや、けちょんけちょんだね。
まるで俺のブログを読んでいるかのようだ。
でも、俺のブログはそうでもほかの人のブログはそうではないぞ。
筆者は日記は公開を前提とするのではなく、
ひとりになり、自分に向き合い、自分があることを感じとりながら、静かに日記の文字を書く。最少の文字に思いをのせる。感じたことも、思ったことも、自分のなかにとどめる。だいじなことは、時間をかけて考える。こうした内側のひとときをもつことをたいせつに思う人は、ブログによりかかることはないように思う。
ぐさっとくる。
でも「よりかかって」生きているのだよ、俺は(居直り佐平次だね)。
その人ひとりのためには、記憶しなくてもいいが、あることをおぼえていることで、他人を幸福にすることはある。他人をしあわせな気持ちにしようと思っている人は、ものをおぼえようとするものである。
ここまでは、思いあたる。
だが、
記憶のとぼしい人は、おそらく人をほんとうに愛したことがない。あるいはほんとうには好きな人がいなかったのかもしれない。
となると、ねえ、いささか鼻白む隠居だ。
それに荒川さん、記憶が人をしあわせにするから、忘れないために日記に記録するのだ、というのは、ちょっとずるいようでもある。
「日記をつける人は自分だけではなく、人をたいせつにしたいと願う人」なんて博文館のコピーになるなあ。
日記をつけることは、自分のそばに、自分とは少しだけちがう自分がいることを感じることなのだ。ときどき、あるいはちょっとだけでも、そう感じることなのだ。その分、世界はひろくなる。一日もひろくなる。新しくなる。
とある。
俺は日記は学生時代に焼いてしまってそれきりなのに、ブログは11年も一日として欠かさず続けている。
その間、世界や一日がひろくなり、新しくなり続けてきたのかどうか、心もとない(日記じゃないもんな)。
でもブログをやらなかったら思索が深まってもっとひろい世界が日々是新であったかというと、「とても」そうは思えないのだ。
荒川洋治詩集(現代詩文庫)も持っていますが、う~ん。私のアタマや感性では、理解不能なものが多いです。というか格闘して読まなきゃならない。
荒川さんの論でいうと、荷風の断腸亭日常はどうなんでしょうね。
日記もブログも、様々なものがあるのですから、そう決めつけないでくださいと言いたいな。
でも・・・・・と言いたくもなりますが
確かにねーとも思え・・・・
日記などは私の場合自分の気持ちや
物事の整理のためかもしれないです
ブログは・・・・ 時間をかけて考え
内側のひと時を持った心地よさを
発信したいこともあるように思います
誤字だらけの私のブログ いかにも私です
ブログってあってないようなものですね
架空の人の自己満足なのかしら・・・・・
本書でもどこかのパーテイに出席したらとんでもない人からそのことを言われてびっくりしたことを書いてます。活字媒体とは比較にならない速さで関係のない人にまでいろんな私的なことが広がるのが嫌とも。
何といわれようと私はブログをやめませんけど。
この記事も荒川さんが読んだら筋違いな引用だとか言われるのかな。
原稿用紙に向かっているのと同じ気持ちで書く人もいるでしょう。
普通の人はそれを印刷媒体で人に伝える手段がないのですから、ブログはありがたいですよね。
記事にも書いたように、印刷媒体で生計を立てている人だっていいかげんな文章はいくらでも書いていますし。
ブログって星の数ほどありますが、やっぱりよく読ませていただくとその人となりが出ますよね。
故意に別の人を装って書いたり、自分の思っていることに蓋をして書いたりしている人は別として、やっぱり日記もブログも同じのような気がします。
私は日記も書いているのですが、大体同じように書きます。
ただやっぱりブログは不特定多数の方の目に触れるので、注意すべき点もたくさんありますがね。
だけどこの本、興味あります、読んでみたいです。
夕べラジオで精神科医の香山リカさんが、悩んでいる人に非公開のブログを勧めていました。
非公開だったら日記と同じじゃないの?
自分の気持がおさまらない時、事柄を整理し、紙に書いて見る事はとてもいいと聞きました。
saheiziさんのブログはすごいよ!はなまるです!
と、言いたくなりました(笑)。
荒川洋治の日記をつける、小さな積み重ねから、見える人生、広がる文学ーーー如何なる文学か。
ブログで自動記述その言葉の量で「自分がある」ような錯覚「自分がない状態」なのだ、冷静になれば他人もないが自分もない状態である事に気づく。
物書きではない私のブログREIKoGoGoGo日記を省みたりして、"日記をつける"此の本を読まないと消化不良起こしそう(笑)
でも毎日続けているとどこかにそれが透けて見えませんか。
別に悪いことだと思いませんが。
視点を変えたり違う自分を演出したりするのもブログの楽しみの一つだと思います。
むしろそういう芸当がうまくできないのが残念です。
非公開のブログ、原稿用紙や日記帳の代わり、書くことによって気持ちを整理したりはけ口をつくれるかも。
ただし筆跡とかはないのですね。
(自分の手書きの日記って筆跡も記録のうちなんでしょう。)
こういう書き方を読むと、紙にペンで書くものが上で、ネットの言葉は下であるかのような印象を受けますが、どちらにもそれぞれの特徴があるだけという気もします。その違いは確かにあるとは思いますが。
まず個人の日記に読者はいませんものね、自分以外には。
私はブログは恥ずかしながら作品のつもりで書いています。日記は覚え書き、下書き、かな。
佐平次さんがブログを書いてくださってありがたいです。こうして私の知らない世界を見せていただけるし、ここでいろんな方の意見も拝見できるし。
富士日記はいいですよねえ。何度でも読んでしまいます。
ぐさっとくるところもありますが、ブログに対する偏見(もしかすると不愉快な経験に基づく)があるような気がします。
それと、言葉をぎりぎり吟味して発表する詩人・作家としての矜持も感じられます。
私こそ、kotokoさんはじめ多くの方のブログにどれだけ啓発され励まされていることか!。
荒川のいう「匿名だと内容も陰湿なものになる」などということは感じたことがありません。
それは、著作家(プロ)の文章とはもちろん違います。
確かに「おまんまをいただく」文章ではないでしょう。
でも、アマチュアが発信の手段を自由に得たという意味で、大きな変換を迎えたといってもいいでしょう。
特に、saheijiさんのように(本当に)毎日続いておられる方には、プロにはないすごささえ、感じています。荒川洋治さんも尊敬しているお一人ですが、あんなに、けちょんけちょんにけなすことはないでしょう。荒っぽい評価でしょう。確かに、一人きりで作っているブログと、カメラマン、ライター、校正マンを抱えた雑誌などと同列に批評するのはずるいともいえます。
ブログは偉大なるアマチュアの力(メディア)だと、堂々と胸をはりましょう。
元・雑誌の編集者(プロの一部分を担っていた)としても応援します。
道具として、新聞とガリ版、グラビア雑誌とブログと比較してもいいのかもと思います。
saheijiさんとネットを通じて長い間付き合ってきたものとして、これは書かねばと思い、今書いています。
プロは寝かすということをします。
ブログは、寝かさず、いきなり書き殴ります。
ここに違いはあるでしょう。
ですから、もっともっと、みんなが推敲、書き直しをブログでもやれば、質があがるでしょう。
津野海太郎さんあたりが、また、違う視点で書いてくださるといいななんて思うのです。
私は書きなぐりですが、推敲と深い内省の上で書かれたブログも拝見します。
そうでなくともこれだけ多くの人が毎日交信できることは一つの奇蹟(昔から見たら)かもしれないですね。
このツールをもっともっと意味のあるものにしていきたいと思います。