落語の世界はやさしい人ばかり 第569回「落語研究会」
2015年 11月 25日
ゆっくり、といっても20分もいられない、銭湯に入って国立小劇場の落語研究会。
公園で木の上に見た月がビルの上まで昇ってきた。
朝也「代脈」
ずいぶんよくなって、弟子の銀杏(ぎんなん)と駕籠の男とのやりとりなど、かわいい。
馬路「景清」
ちょっと重たいなあ、と思っているうちに上野の清水様に願掛けに行くあたりから引き込まれた。
百日目、観音様に必死でマントラを唱えて開眼を祈る。
くどすぎるようだが、それなりの必然性は、その後の家で赤飯を用意して待つ老母のことを聴かされると納得できる。
不忍池の石橋で雷に打たれ気絶した定次郎が、気がついて、「きれいな月だなあ、嘘みてだ」、、はたと目が明いたことに気がつく。
びしょ濡れの定次郎が煌々と照る月明かりのなかに立っている姿が彷彿。
志ん輔「富久」
王子の居酒屋で仲間と生ホッピーを呑みすぎて腰を取られた話から、酒で旦那をしくじった幇間・久蔵の情けない姿へ。
火事見舞いに、浅草三軒町から芝久保町へ駆けつける久蔵、筑波おろしに耳がちぎれそう。
「おお、久蔵か、よく来たな、出入りを許すぞ」
下心は承知の上で久蔵の気持ちを汲んでやって、「芸人はそっちで休んでいろ」とか、浅草の火事で再び駆け戻る久蔵に「無事だとは思うが、もしも焼け出されたら俺の家に来なければ駄目だぞ」という久保町の旦那。
「景清」で定次郎にこんこんとあきらめないで信心を続けろと励まし、その様子を見に来てくれる石田の旦那。
どちらも富の格差はあっても、思いやりと行いが伴う金持ち。
割り当てられた40分に収めようとしてか、志ん朝などで馴染みになっているセリフがところどころ省かれた、それでも長すぎるという印象。
難しい噺なのだ。
久しぶりに見る鯉昇、やはりこの人のマクラは愉快。
役者志望の噺家たちが「俊寛」をやった。
幕をあげると岩にしがみつく俊寛、すぐに幕が下りて「瞬間」だとか。
猪、猿、ウサギ、犬、、十二支の役しかやらない武助を可愛がって、馬の脚をやるのを人を誘って、しかも役者たちに鰻重を差し入れする旦那、ここにもいたぞ、やさしい旦那。
酔っぱらってヒョロヒョロの前脚、屁までこくから馬の胴体が臭いッタラありゃしない。
フラフラが過ぎて馬の頭が折れて穴から前脚の丸顔がにゅ~、馬は丸顔って、百閒にあったかな。
その上、生まれて初めて「お、いいぞ!馬の脚」なんていわれて舞い上がってしまう武助、脚に穴をあけて顔を突き出す。
ドタバタの挙げ句に背景が倒れてその後ろの民家の古くなって「そろそろ機会があったら倒れたいなあ」と考えていた塀にぶつかり共に倒れると、庭ではオカミサンが行水を終わって立ち上がったところ、とんだミロのヴィーナスだ。
鰻やら屁やら酒やらいろんな匂いがする、とてもたのしいオゲヒン。
7月に亡くなった扇橋の大事にしていた三木助の十八番。
いぜん、小さなマンションで扇辰の噺を聴いたとき、出の前に楽屋代わりのキッチンで、「人」の字を手のひらに描いてのみこんでいるのを見ちゃった。
おそらく今日もまた丁寧に「人」をのんできたことだろう。
それとも五郎丸バージョンに変えたか。
謎の上方男、名前を忘れたというから棟梁・政五郎配下の連中がつけた仮の名が、ポンシュー、花火のようにポンと上がってシュ~と消えるから、ってシュールな命名だ。
ポンシューが彫った大黒様を見て、「なぜか泣けてくる」と感動する政五郎、いいね。
感動するのもそのはず、ポンシュー、実は神様ともいわれる左甚五郎だった。
どの噺も面白かったが、終演が15分も超過したせいかちょっとくたびれた。
人情噺の大作を短い時間に詰め込みすぎ?
「景清」「富久」、そうほうに神様への願かけの場面があって、「景清」「三井の大黒」ともに彫り師が主人公ってのもつきすぎ。
ふと、こうして歩いている俺をどこかの監視カメラが映しているんだろうな、と頭をめぐらしてみたがそれらしきものはみつからない、ただ、中天に大きな月があるのみ。
と、「わっ!居残りさん!」大きな声とともにブレーキ音がして自転車がとまる。
八百屋の「KAISAI」のお姉さんだ。
遅くまでお疲れさん!という言葉が出てこないで、もごもごと「お休み!」と言った。
帰って無添加のカップラーメンを作って、タマゴを割りいれたら、さっきの月のようだった。
たしかに、ややネタ選びに問題ありですね。
私は、今夜、若手の落語を聴きに行きます。
黒門町の口調が耳に残っています(もちろん生ではなくビデオですけど)
冬の噺は中身の前に寒さが伝わらないといけない、とは誰やらの話で聞きました。
椿のいたずら好きは白紫陽花の新種と同じ人ですかねえ。