毒を手にした者の万能感 帚木蓬生「悲素」

いつものように海外ニュースを見ようと思ったら、休日の特番らしい登山番組、「幻の山 カカボラジ」。
残された最後の秘境、ミャンマーの熱帯林を240キロ、二十日もかけて標高4千メートルのベースキャンプにたどり着く。
ガイドもその雄姿を初めてみたという美しくも峻険な5881メートルの山頂。
そのままストレッチや洗濯をしながら最後までみてしまった。

長野育ち、子供の頃から学校の遠足なども山登りにはなじんでいたのに、東京に出てから登ったのは富士山、四阿山、秋田駒、磐梯山、、ほんのおしるしだ。
高所恐怖症だからテレビ映像をみていてもお尻がス~ス~。
次元の違う人たちが限界に挑む姿を見ているのは心地よい。
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昨日紹介した、畠山鈴香となんとなくイメージ(メデイアの作り上げた)が似ているような、和歌山カレーライス殺人事件の林眞須美被告、こちらは死刑が確定している。
本書を読んで、畠山と林はまったく違う女であることが良く分かった。

医師でもある筆者が、この事件の被害者・64人、さらにはカレー事件以前に起きていた保険金詐取目的の殺人一件・殺人未遂三件の4人について、丁寧な診察と診療記録の読解により、これらの事件が砒素投与によることを明らかにした九州大学の井上尚英教授から託された鑑定資料一式をもとに、井上教授を主人公として書いたフィクションだ。
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540頁の大作の多くが、主人公の教授とその同僚である医学者たちによる、診療場面やエックス線写真や心電図の解釈、それもほとんどが同じ症状であり、従って同じ砒素中毒であることを示す記述に費やされる。
医学用語の羅列、地味であり、面倒でもある。
後半の法廷場面も医学的見解の応酬が多い。

それでも最後まで引きずって読ませる猛烈な迫力は、筆者の、井上教授たち学者やそれをサポートする刑事・検事たちに対するリスペクト(これでもかと、細部の記述をつみ重ねる)、被告の残忍・特異性に対する怒り、カレー事件のみを有罪とし、10数年以前に遡る砒素混入や保険金詐取の実態をスル―した裁判所に対する怒り(それを精査しなければカレー事件の闇は解明できないのに)、砒素のことなど何も知らないくせに利いた風なことを言ったり書いたりするメデイアや似非専門家、弁護士たちに対する怒りがあるからだ。
真実を見極めるということが、かくも無私の崇高な情熱によって、丹念に丹念に、謙虚になされていくのかと感動する。いろいろな症状の出た時系列、程度、鑑別診断という言葉も知った。

砒素が原因と分かっても、発見された砒素の数々との同定が難しい。
科警研の女にはとうてい歯が立たない。
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途中に挿入される、サリン事件、シモン事件、17世紀にイタリアで販売された初の毒物〈トッファーナ水〉や、毒殺史を塗り替えたマリー・ラファルジュ事件、砒素による自殺を克明に描写した『ボヴァリー夫人』やアガサ・クリスティ『蒼ざめた馬』を読んだ毒殺魔グレアム・ヤング、、などのエピソードも面白い。
毒ガスを初めて戦争に使用したのは第一次大戦のドイツとイギリス、サリンを使ったのはオウムなどという記述を読んだら、今朝の新聞でISがマスタードガスを使ったらしいとのニュース。

精神科医の筆者は、林(小説では小林)のカレー事件における動機を、

毒を手にした人間は、知らず知らずのうちに万能感を獲得する。万能感とともに、神の座に昇りつめた錯覚に陥る。こうなると、毒の使用はもはや一回ではやめられない。
ましてその毒が誰も知らない秘毒となれば、なおさらである。
こうして毒の行使がまた次の行為を呼ぶ、やめられない嗜癖の病態に達する。
そうなると、毒を盛っているときだけが、生きている実感を味わえる。その先の帰結がどうなるかについては、もはや思念が及ばない。
毒を盛る行為自体が目的化して、自走状態に陥るのだ。


と書いている。
ISやそれと”戦争をする”欧米が毒ガスの嗜癖に陥らないことを祈る。
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新潮社



Commented by c-khan7 at 2015-11-23 15:22
私の好きなカレーを事件にした罪は大きい。
化学兵器は機制されているけど、核兵器は野放しの不思議。
Commented by ikuohasegawa at 2015-11-23 17:23
畠山鈴香に林眞須美。
読みたい本が増えて追いつきません。
これを読んで読了とする・・・わけにはいかないしなあ。
Commented by sweetmitsuki at 2015-11-23 18:25
毒なんて、その気になって探せば海にも山にもたくさんありますよ。
フグとか、トリカブトとか、ドクツルタケとか。
ニリンソウの新芽と間違えてトリカブトを食べて病院送りになる人は、毎年のようにいますけど、トリカブトを殺人目的で使う人は非常に稀です。
毒を手にした人がすべてそうなるのではなく、それはやっぱし異常者の心理だと思います。
かくいう私も、ハシリドコロが群生している雑木林を見つけまして、壮観でしたが、それで人様をどうこうする気にはなれませんでした。
Commented by saheizi-inokori at 2015-11-23 20:57
> c-khan7さん、それもそうでけど戦争が野放しの方が問題。
Commented by saheizi-inokori at 2015-11-23 21:00
> ikuohasegawaさん、隠居の戯言です。
読み過ごしにして下さい。
Commented by saheizi-inokori at 2015-11-23 21:03
> sweetmitsukiさん、毒を毒と承知して人に使って命を奪うと、また違う境地なのかもね。
私は自分に毒を盛りたいほうですが。
Commented by ほめ・く at 2015-11-24 05:09 x
和歌山毒カレー事件の最大の謎は犯行動機です。それまでの林の犯行は全て金銭目的でした。保険料の支払いだけで年間2千万円だったので、次々とヒ素を使った保険金詐欺を繰り返さざるを得なかったのでしょう。あの一家は林の詐取だけで暮らしていたのです。その林がなぜ1銭にもならぬカレー事件を起こしたのか、そこが不明でした。帚木氏の説を読んで納得できましたが、カレー事件の際の林には明確な殺意は無かったように思えます。毒を盛ることが自己目的化してしまい、結果として大量殺人を引き起こしてしまったと見るべきでしょうか。
私には畠山とは違った哀れさを林死刑囚に感じます。
Commented by saheizi-inokori at 2015-11-24 09:05
> ほめ・くさん、カレーライスのときは、麻雀に誘って夫や知人を一挙に殺害しようと企んだけれど、うまく揃わなかったようです。
ほんとならその時点でやめればいいのにそのまま混入してしまうところが嗜癖たるゆえんでしょうか。
両親も毒殺されたようですね。
Commented by cocomerita at 2015-11-24 16:18
Ciao saheizi さん
人が持つ闇の深さに 唖然とします
そして そういう類いの闇はきっと多かれ少なかれ誰でも持っていて、いつその頭をもたげるのか ある意味 誰も把握していないのではないか?ということにも、
虫さえ殺せない私には不思議で仕方ないけれど、そんな私の中にもその類いの闇はあるのだろうと、そういうことに テロ行為そのものより私は恐怖を覚えます

>毒を手にした人間は、知らず知らずのうちに万能感を獲得する

毒や兵器を手にしたとき、そういうスイッチが知らずに入る
そして、自分の力が限りなく増大し、自分が 神にでもなった気分に陥るのかもしれませんね
ISIS しかり、無防備な人間が逃げ回るのを情け容赦なく撃ち殺す
テロ実行前に ドラッグを服用させられているという説もありますが、そういう状況で自分自身が最高の権力を有していると全てを支配していると そういう見当違いの 感覚に 酔う のかも、(いずれにしても理解はできませんが)知れませんね
そして 安倍しかり、コンプレックスを抱えている人間こそ そういう心理の闇の罠に陥りやすいと そう思います
Commented by saheizi-inokori at 2015-11-24 23:15
> cocomeritaさん、劣等感の裏返しが万能感ということですね。
貧困、差別などのひどい状況、とくに戦争は人間の心の闇を炙りだすのだと思います。
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by saheizi-inokori | 2015-11-23 12:31 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(10)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori