吉田茂の悲劇は日本の悲劇だった 豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本」(2)
2015年 10月 19日
それかあらぬか吉田茂はサンフランシスコの平和会議・講和条約の調印式に出ないと言い張る。
幣原を、それがかなわぬとなったら参議院議長を代理出席させると駄々をこねる。
アメリカ側から出席を要請され、周囲からも説得されても、首を縦に振らなかった。
おそらく天皇から厳しい「ご詰問、お叱り」があっただろうと、豊下は書いている。
そうして講和会議において、吉田茂は日本が行った戦争や植民地支配について反省やお詫びをひと言も発することはなく、「共産主義の脅威」と日本も「大戦によって最も大きな破壊と破滅を受けたものの一つ」と被害者日本を強調するのみだった(菅官房長官が差別されていると訴える翁長知事に、本土も同じく悲惨な目に遭った、と言い返したのを想起する)。
全権・吉田が謝らず、講和条約発効記念式典での天皇の「御言葉」にも謝罪の言葉はなかった。
「天皇制国家の無責任の体系」の帰結が、ここに如実に示された。
かくして、「独立」以降の日本においては、昭和天皇の戦争責任を問うことは事実上タブーとなったばかりでなく、ひいては戦争の本質問題を抉り出すことが憚られる事態を招いた。
と豊下は総括する。
以後の吉田茂は親米一途だった。
それに対して「対米追随一辺倒」の批判をする”政敵”鳩山一郎が反米ナショナリズムの世論に支持されて政権奪取する。
ソ連との国交回復の動きに、ダレスの意向も受けて、外務省に圧力をかけて交渉進展を抑え込もうとする吉田。
吉田の影響力もあって、日本外交の目標は「日米機軸」におかれた。
つまり、「米国の機嫌を損なうことなく良好な関係を維持すること」自体が目的化してしまった。
沖縄に本気で向き合おうにもなにも、アメリカの意向が優先するというわけだ。
さて、安倍や現閣僚の大半がそのメンバーであるという「日本会議」は、皇室中心主義を根幹に、戦後体制からの脱却を唱える。
であるならば、今上・明仁天皇の「御意」には忠実でなければならないはずだ。
その点について本書は厳しい追及を行っているが、それはまた明日。
医者も患者を診ないでパソコンばかり見ている医者は信用できない。
東京裁判のキーナン検事(検事は何人もいたが、実質は彼一人で取引っていた)が裁判を終えた時に、昭和天皇は彼を食事に招待し慰労しています。
この二つのエピソードだけで、東京裁判の本質が分かります。
天皇の戦争責任を否定しようとすれば、どうしても侵略戦争への反省は中途半端にならざるを得ません。