人は地下水路を通ってどこに行くのだろう 阿刀田高
2015年 07月 29日
夕方デモに行こうと思ったが身体が参っている。
気を紛らわすというわけじゃないが呑み続けてもいた(息子とも)。
医師は回復の太鼓判を押してくれた。
それまで、そのあと、どっちも呑みすぎた。
あんなものやるもんか、と思っていたが、台湾と無料とか、みんなに伝えるのに連名宛名への返信の繰り返しより面倒がないね。
ユーモラスなスタンプなんかも一息つけるし。
タイキがさっそく俺と朝晩の通信、「今から塾にいってきま~す」とか「おわったよ~、つかれた~」など。
俺はスタンプ押したり「やったね!」とか。
ハイタッチの気分だ。
「たづたづし」(たどたどしい、の古形)、
夕やみは路たづたづし月待ちて行ませ吾背子その間にも見む
という万葉集の歌、その「たづたづし」が好きだという年下の子とか年上の男とか、いろいろ遍歴があるが、そしてどの人も悪くはないが何となく別れてしまう。
年上の人とは子供を作ったが死なれてしまう。
いろんな夢を見るが夢の途中で「これは夢だ」と分かるから怖くない。
でもほんとに見たくない人は出てこない。
記憶は写真と違って生き物だからいろいろに変化していく。
その人がそうだったと思いたいような記憶になってしまったり、すっかり思いだせなくなったり。
「薬指の秘密」、
その人の薬指を強く握りしめて心を集中すると、その人の考えていることがわかる。
それを教えてくれた祖母ちゃんは「死ぬ」という念を送ってきて、その二か月後に亡くなった。
「花酔い」、
桜の花の下で寝転がってワンカップを飲んだら、白昼夢(なのか現実なのか)をみた。
子供の頃に「あべこべの国」の噺をしてくれたやさしい先生がいたのだ。
そこで男は5歳だという。
あべこべの国では年をあべこべに減らしていくのだ。
「花を訪ねて」、
50代の男、小料理屋の小鉢の茗荷とオクラで、幼時にやさしくしてくれたお寺のお姉さんを思い出す。
その人も男のように幼いころからいろんなところに預けられたりして「悲しい人」だった。
いろんなところで暮らしたの。悲しいこともあったけど、いつも一番楽しいことを思いだしていたのね。
と、聴いたのかどうかもはっきりしないけれど、気配として知っていた。
男はその寺を訪ねたのをきっかけに昔住んだところを訪ね歩く。
俺は大学に入った頃、叔父の家を訪ねて酒をたかっていた。
そのとき叔父の親友の橋川文三が来て、何かのはずみにフランス映画「舞踏会の手帳」のことをきいて、なるほどシャレた映画があるんだなあ、と思った。
映画は見ていない。
この小説を読んでいるとそのみていない映画のことを思いだし、渋谷の団地にあった叔父の小さな部屋のことを思いだした。
奇妙な味、とでもいうのだろうか、ありっこない・ありそうな不思議・怪談。
男と女・人間そのものが怪談のような存在かもしれない。
「たづたづし」というのがつきづきし、ような人生だ。
いろんな切り口、やや破調のものもある。
エロテイックな味わいも、かと思えばアリマタヤのヨセフについての言及も。
「言葉の力」への特別な思いが全編に流れている。
さいごの短編の表題が「言葉の力」だ。
新潮社
阿刀田 高 好きです
昔さんざん読みましたっけ
不思議で 優しい ちょっと淋しい 怖いんだけど、でも何か自分の懐触れば 思い当たることがありそうな、そんなところに惹かれて 次から次へと、、
私のなかにも 昔子供の頃住んでいた町がその時いた犬たちも近所のおじさんおばさんたちもみな一緒に 未だに ありありと存在しています
息子さんお大事にしてください
阿刀田氏の最近の本手にしていませんでした。
夕やみは路たづたづし月待ちて行ませ吾背子その間にも見む
この歌は趣がありますね。
最後の「その間にも見む」は女性らしい、なにかふんわりとしたいい表現ですね。
「たづたづし」という古語もいい。
秋田弁にもあちらこちらに古語が息づいております。
息子さん手術が無事終わってよかったですね。
ご心配なさったことでしょう。
猛暑の中デモに参加しているsaheiziさんにも頭が下がります。
どうぞ、くれぐれも体には気をつけてください。
息子さんのご回復を祈っております。
その居酒屋の前の側溝にこの猫と反対側に死んだように横たわっている大きな猫がいました。
死んでいるのかとぎょっとしたらお腹がゆっくり上下してました。