隠居は勉強が好きだったんだ 加藤周一「日本文学史序説」(上)
2015年 07月 24日
少し親近感を抱いたのは、「高原好日」を読んだときだった。
それにしても富裕なハイブラウというだけでなんとなく退いてしまうのが俺の育ちの悪さだ。
この本もずいぶん前に買って、さいしょの「日本文学の特徴について」から「第一章 『万葉集の時代』」あたりで途中下車していた。
『十七条の憲法』の外来思想を吸収しながらも、天皇制権力の確立と共同体の「和」を強調してやまぬ、しかも文章としてもみごとであったこと。
『万葉集』には女流歌人が多く、「おそらく抒情詩の作者にこれほど女の多かった時代は古今東西に例が少ない」だろうこと。
日本にはまず(たをやめぶり)があって、その後(13世紀以来)外国文化の影響のもとで「ますらおぶり」がつくりあげられたこと(賀茂真淵は、平安朝以来の和歌の伝統の中で暮らしていたから、それとの比較で『万葉』の「ますらおぶり」を語った)。
それでも、貫之が誰よりも深く土着の世界観に根ざしていたがために、十世紀以後十二世紀末までの、摂関時代の「女房文化」を予告していた。
しかし、その『土左日記』をはるかに凌駕していた二つの作者不明のかな書き散文作品があった。
それは、想像的世界の豊かさと話の構成の見事さにおいて『竹取物語』であり、場面の変化と心理的な叙述の洗練において『伊勢物語』であった。
適当に抜いてみたが、どこを読んでも今までの知識の曖昧さをたしなめられたり、新しい知見を教えられて、心弾むのだ。
読んでいるときは興奮しているけれど、本を閉じて三歩も歩くとほとんど忘れているのだ。
それでも、たしかに充実を感じる時間を過ごせたのだから、ありがたいことだと思う。
ちくま学芸文庫
3人に共通している異郷からはるか日本を眺める視点は
自分の内部の飢餓感も含めた愛おしさのようなものがあるからでしょうか?重複文化の重なり具合の重なりは何かと常に見据えている目なのかと思ったりもします。
93歳とのことで、年齢に不足はないのですが、
加藤周一が逝った時と同様の、喪失感を覚えます。
日本人が、どんどん愚かになっていくような不安を感じるのです。
学生時代、この町(京都)のどこかに加藤周一が居る、
と思うだけで、小難しい本を読む励みになったものです。
「日本文学史序説下」を読みたいなあ。
近代のどのあたりまでの言及なのでしょう。
猛暑がつづき、涼しい部屋で読書が嬉しいですね(^_-)-☆