「心」離れの勧め 安田登「あわいの力 『心の時代』の次を生きる」
2015年 03月 16日
萬の甲骨文字と亀のそれはよく似ている。
萬子(まんず)はもともとは亀、索子(そーず)は竹、筒子(ぴんず)は竹の輪切り、白、赤、緑は黒(玄武=亀)を除いた四神、つまり麻雀は占いに使う、聖なるまたは呪術的な儀礼に使う道具から聖性をそぎ落として、ゲームにするために亀を抜いたものではないか。
紀元前1300年頃、殷の甲骨文字を読み解くと○○の日に「羌族(きょうぞく)」を生贄として捧げてよろしいか、という占いの文がある。
羌族の人々は殷の人々に狩られ、一定期間生かされていたあと、殺されて心臓を神に捧げられたようだ。
そういうことが数百年、千年以上も続いたようだ。
なぜ羌族の人々は、唯々諾々とそういう運命に従ったのか?
安田は、このころの羌族には「時間」や「記憶」がなかったのではないか、という。
すなわち羌族は牛や羊と同じように、「心」がなかったのではないか。
その頃の甲骨文字には「心」という文字はない。
紀元前1300年から1000年までのどこかで羌族にも「心」が芽生え、過去の記憶、未来への不安や恐怖ガ生まれた。
人間は「心」によって、時間の流れを感知できるようになったけれど、その時間そのものをみることもコントロールすることもできない。
後悔や不安・恐怖に押しつぶされそうになったのが「心」の副作用だ。
日本人の「心」は三層構造だという。
表層が「こころ」移ろいやすい感情。その下にあるのが表層の「こころ」を生み出すもとになる動的な心的作用、「おもひ」。
欠落感を感じる「こひ」が重要。「おもひ」の奥にあって、ことばを伴うことなく一瞬にして相手に伝わるなにか、それが「心(しん)」「芯」に通じ「神(しん)」にも通じる神秘的な作用だ。
これは唯識のことなのだろうか。
「あはれ」、大きく息を吐くことこそ「憐み」であった。
現代人はもう一度「心」以前の内臓感覚、皮膚感覚で世界をとらえなおすべきではないか。
外と内との「あわい」を「身(み)」(魂の抜け殻としてとらえる身体ではなく)をもって感じることが必要ではないか。
なんとまあ、270頁ほどの本に百科事典もかくやと思うほどの博覧強記。
それを自らの興味・探究心の赴くまま渉猟していくのだから凄いものだ。
死ぬまで自分が「死んだ」ことに気がつかないし、死んでからも気がつかないということは、ひょっとしたら「人の死」というのは、少なくともその人にとっては存在しないことになるかもしれない。別の言い方をすると、人には「生きている」という状態しかないのです。能におけるワキとは、「ここではない世界」「異界」を垣間見させ、ときに現実と「異界」をつなぐ人、それは、たとえば教師だ。
実社会で生きていくには役に立たないことを学び、それによって、人生を豊かに生きられるようにする。あるいは、そのままでは閉塞状態に陥るような社会を変えることができるような人を育てる。それが教育の場の力です。(略)その反対に、実社会で役に立つことや受験のための事ばかり教えるのが今の学校。
あらゆることがビジネスになり、マーケティングで考えられるようになりました。「ものがたり」を語るはずの文学も、「見えないもの」を浮かび上がらせる「歌」も、何もかもが、売るためにわかりやすさだけが求められるようになっています。独りよがりの紹介でごめんなさい。
その影響なのか、今の若い人たちまでもが、社会に、つまり大人たちに受け入れてもらうことばかりを考えているようにも見えます。
なかなか簡単に要約するってわけにはいかない本でした。
前に紹介したマーク・ローランズ「哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン」に説かれたオオカミの生き方を想う。
ミシマ社
でも、彼らには心というものがなかったのではないかと。羊や牛に心がないかと言われると、そうかな、と少し思ったりもしますが、そう感じるのは私に心というものがあるからなのか。
胸が痛む、というときの胸は「心」を指していますよね。心臓が痛い、というのとは違うわけで、面白いし不思議。心って、頭にはないですものね、イメージとして。
以前からずっと気にかかりながらうやむやにしていたことが、また再燃するような記事でした。面白い本のご紹介をありがとうございました。
写真の海はどこですか?
異界を垣間見てしまいました。
いつどんな面白いことに巡り合えるか、わからないですから。
あわいの力読みたくなりました。