信用出来たらどんなにいいか、フクシマの内部被ばく 早野龍五・糸井重里「知ろうとすること。」
2015年 03月 03日
「憲法『自ら』本で語る」、「思想、自分のものにしてほしい」などの見出し。
その中で
幼いころに父を亡くし、生活に苦労する母を見て育った。近所の人にも助けられ、「こういう人たちを裏切らない生き方をしたい」と思うようになる。とあって、歩んだ道は違うし、めったに会うこともない弟だけれど考えてきたことは同じだと思った。
もっとも、母は「私はそんなに苦労したという思いがないのよ」と言っていたが。
いずれも紅白セットでひな祭りを迎える構え。
「今日、午前中に6000歩だよ!」おばあさんが嬉しげに歩数計を見せていた。
早野は、
内部被ばくは当初想定よりもかなり低く、「もう、食べ物については心配しなくていい」というレベルだという。
糸井は、
放射能のことを闇雲に怖がっていても先に進めないんです。事実を知って正しく怖がることなんだと思いますという。
早野は10年ほど前に肺がんになってCT検査(古い機械)で200ミリシーベルトくらいの医療被曝をしていたこと、1973年中国が大気圏内核実験をしたときに東京の人たちはフクシマの病院で測定した程度の被曝をしたこと、のふたつを物差しにして考えたそうだ。
それをポケットマネーを使ってスタートしてやがて予算もついたのだと。
矢ヶ崎克馬「隠された被曝」などを読むと、そもそも放射能の身体に対する影響調査の基本データを提供している国際放射線防護委員会(ICRP)のものが信用できないという。
内部被ばくの機序についても分っていないことが多いとも書いてあった。
アルファ線やベータ線の被曝はホールボデイカウンターでは測れないともあったような気がする。
俺は、仕事をしているときにエリート、とくに東大などを出た人は人よりも早く出世し大事な仕事を与えられるのだから、自らを犠牲にしても正しいことのために頑張ることが求められると信じていたのに、そうではない事例ばかりに接した。
そして、3・11、フクシマ、原子力ムラ。
あの時を境に東大に代表される既成の権威に対して強い不信感を抱くようになった。
(糸井) それを言ってる発言主体が、みんなから信用されるといういうような生き方をしていくしかないかな。ずいぶん遠回りですけど。というやりとりがある。
(早野) いや、遠回りですけど、その遠回りが必要です。だから、やっぱり時間はかかる。人間のさまざまな営みにとって、時間って大事ですよね。
今の俺は、まだ彼らを信用できない。
たとえば、「御用学者、早野龍五氏の欺瞞と背景にある利権構造」
新潮文庫
東大なんていりませんね。税金の無駄です。
気象庁も日本放送協会も役に立たないどころか。
国民に害を与えている。酷いですねぇー。
二千部売れれば立派なもんですよ。
誰の心にも、そんな気持ちがあって、
ついつい、大丈夫、と言ってくれる人を望んでしまうのです。
糸井重里って、良識的なイメージがあるし…くせ者ですねえ。
最近特に、科学的って、何なんだろう…と考えこんでしまいます。
子供の頃は、科学的って「真実」と同じ意味だと思っていました。
如何にも中立的良心的?
STAP騒動じゃないですが、普通の人が科学的であろうとすればそういうことに多いのでしょう(私もそうですが)。それにしてもうまいやり方です。
原発推進パンフレットかな。
記事の概要は小言幸兵衛さんがアップしてくださいました。http://kogotokoubei.blog39.fc2.com/blog-entry-1415.html
I氏、胡散臭いですね、たしかに。
糸井が正義を大声で言ったりユーモアの無い人は信用できないと書いてましたが、事柄によっては深刻に力を込めてユーモアもかなぐり捨てて騒がなくちゃいけないと思うのです。
あえて文科省の呆れた対応をいうのも中立を装うためなのかと、ついつい疑心暗鬼になるのも哀しい。
屈託のない笑顔やラフなシャツの教師が。。
言葉お手玉のプロのコピーライターが何やら言うことも
読んでもいないのにすみませんが 胡散くさいです。
表紙の生徒達に、弟君のご著書を贈りたいです
それを分からない人たちってのがホントに胡散臭いです。