悲しみや不幸に打ちのめされそうな女たちに贈る短編集 乙川優三郎「トワイライト・シャッフル」
2014年 10月 03日
自ら作り得なかった民主国家を謳い、発展に酔い、戦争を忘れていくのは国で、その実体は権力欲と利己心に冒された野心家の群れであろう。時代を演出し、国策を操る彼らこそ俗物ではないかと思う。と書いた乙川優三郎(時代小説でデビューしたらしい)がこんどはずいぶんコジャレタ表題の短編集。
「サヤンテラス」「オ・グランジ・アモール」「ムーンライタ―」「ビア・ジン・コーク」「私のために生まれた街」「月を取ってきてなんて言わない」、、13編、どれもコジャレタ表題だし、海辺のジャズバーとかイタリアンレストランとか道具立てもそれっぽい。
だが、内容は硬派だ。
軽佻浮薄な現代を批判する目でコジャレタ舞台を突き刺す。
終わりかけた男と女の話、または不幸に打ちのめされそうな女の話が多い。
とくに、いい加減で軟弱な男に対して忍従してきた女が自覚し再生しようとする話が多い。
「あなたはあなた自身の神様だけど、人から見たら恐ろしく下等な人間だってことに気づかない。気づけばそこから美しい世界が広がるというのに、もったいない話だわ」勝手に出ていった男が女に振られてかけてきた身勝手な電話に答える女は、房総の古い家で学生時代から買い集めた8000冊の文庫本と大きなピッチャーに作った「ビア・ジン・コーク」でスーパー勤務の休日を過ごす。
「こんなときに小難しい話はやめてくれ、おれは本気でやり直そうとしている、美しい世界なんて聞いちゃいられない、いったい何を言ってるんだ」
「あなたはキリマンジャロの豹にはなれないってこと、見上げることもしないで行けるわけがないもの」
「キリマンジャロの雪」(ヘミングウェイ)の冒頭の文章に出てくる、「(山頂近くに)干涸びて凍りついた、一頭の豹の屍が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明し得た者は一人もいない」、読んだ女は、その豹はヘミングウェイ自身のことだろう、と感じ、これを書いたときの作家が自分と同年輩だと知って寒気を覚える。
ヘミングウェイが「おれはあまりにも激しく愛し、多くを求めすぎて、その挙げ句、すべてをすり減らしてしまった」と書いているのに対して、自分なら「わたしはあまりにも愛を知らず、何も求めず、その挙げ句、すべてを無駄に積み上げてしまった」と書くだろうと思っていたのだ。
男の電話に答えた女は汗を含んだタンクトップも脱いで冷えてしまったシチューを食う。
そのとき始めて涙が出る。
汚れた皿を片付けるついでに男の食器や箸を捨てる。
もう一度ピッチャーに新しいカクテルを満たしサイドテーブルに本を積み、メモを入れる靴箱も持ってきた。
十年の走り書きが詰まっている。
煎じつめればこの世のことは何もかも美しいのであり、美しくないのは生きることの気高い目的や自分の人間的価値を忘れたときの私たちの考えや行為だけである。チェーホフの言葉こそ、時間も空間も飛び越えて、縁もゆかりもない女の心を支えようとしているのだった。
乙川の作家としての覚悟・願いはそういう文章を書くことではないかと思った。
励ましの短編集だ。
新潮社
...ロートレックの「人間は醜い。されど人生は美しい」と言う言葉を、なんだか久し振りに思い出しました。
この作家は心のひだを描くのが上手いですよね。和装が洋装になっても本質は変わらず健在なようで、これは読むのが楽しみです。
と、思ったのに、文を読んでがっくり・・・
一瞬でも 「うめえ」 と思って、良かったのか、
「うめえ」 と思った分、騙された、という思いが強くなるのか、
ツライですね・・・
小さい子供たちが運動会で一生懸命に走る姿を見て涙ぐんでしまうのはそういうことなのかもしれないなあ。
登場人物たちの薄っぺらさを浮き上がらせる効果を狙ったのかな。
それとも新境地の開拓かもしれない。
このところ有機野菜主体の食事をしていたのでことのほか反応がきつかったようです。
しかし、一方ブログで知り合った方々や、はたまたこういう本を出版したリ、弟さんのような真摯に今を考える方々の存在を最近知ってとても心強く、生きてて良かったな~と思う事が多くなりました。
さて、焼きそば・・残念でしたね。有機野菜など常食していると、化学物質のはいった食物にすぐ反応するようになりますね。やっぱり生身の身体には異物なのでしょう。・・・
少しでも人との出会いや読書などで日々を背筋正して生きていきたいと思っています。
たしかに化学調味料には前より敏感になりました。
幼い子供たちをそう育てたいものですが、コストが高いのが辛いところです。