憲法の危機を憂えていると芥川賞にも集中できない 柴崎友香「春の庭」
2014年 08月 23日
わたくし(日本国憲法)の十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」といって、「すべて国民は、人として尊重される」とはいっていないのだ。「人」と「個人」とはたった一文字の違いだけれど、そこにはとても重要なことが含まれているのだ。21日に紹介した弟の「わたくしは日本国憲法です。」の中の文章だ。
「個人」は、「個性を持つたヒト」という意味であり、そこにはひとりひとりの個性を認めない社会から、ひとりひとりの個性を尊重する社会に変えるというおもいが込められているのだ。ひとりひとりの個性を認めないということは、要するにひとびとを「種としてのヒト」としか見ないということなのだ。
ちなみに自民党は、憲法改正草案でここを「すべて国民は、人として尊重される」と変えようとしている。憲法を改正してわざわざ「個人」を「人(ヒト)」といいかえようとしているのは、国民のすべてを「臣民」「天皇の赤子」として、没個性的に「国家の駒」のように位置づけていた戦前の憲法の考え方に戻そうというもので、それは国民ひとりひとりを個性を持ったひととして尊重するという基本的人権の思想を否定する考え方を、こっそり憲法の中に持ち込もうとするものなのだ。
民主主義の根っこは、ひとりひとりの個人は基本的人権を持っているかけがえのない存在だという固い信念にある。つまり個人の尊厳の承認が民主主義の根っこにある。これが弟自身の信念でもある。
どんな物や物事もひとつの性質だけでなく、実際にはとてもいろいろな性質を持っている。その無限と言っても過言ではないいろいろな性質を、ひとりのひとがすべて認識することなどできるはずもない。そういう了解を共有するのが民主主義社会だという。
だからこの社会にある物事をより深く、より正確に理解していくためには、病者も、弱者も、老人もなく、すべてのひとの意見を切り捨てずに、尊重し、活かしていくことが必要なのだ。
その意味で、すべてのひとはほかに代え難い有用性を持っていることになるのだ。
教育は「子どもの外にある知識や価値観を教える」ことという現代日本を覆いつくしている教育観に真っ向から異議を唱え、「子どもの内にある可能性を引き出し、子供が自ら学び、学んだことを礎(いしずえ)に行動する(生きる)ことができるように援助する」ことが憲法の想定する教育だ、という。
本を紹介したら思いのほかいろいろな方からコメントを頂いたうえ、江戸川法律事務所に購入申し込みをされる方も多いと(中には外国から)聞き、甚六としても嬉しい。
あらためてお礼申し上げます。
世田谷の建物、露地、世田谷線の狸、、世田谷的空気を感じながら読んだ。
建物とか道具とかを見てそれを使っていた人たちのことを想像する。
建物や木々や道具にも何か人の影を感じる。
オルセー展で並べられた絵画を見ていただろうパリジャンのことを考える。
そういう人たちを絵の方が見つめ返す。
ふんわかした気分で読み終わったが、それでおしまい。
アパートに住む主人公とその隣人たちのコミュニケーションの育ち方、会社で貰った出張土産のプレゼントがやがて大きく豪勢なソファに育っていくのは藁しべ長者だな、とかいい加減な読みかただ。
別に文句はないが、チトわびしくもある。
事実は小説よりもの今日この頃だからか。
ですから、日本人は民主主義を理解していないと思うのです。
だって、国連が出来た後も人種差別を続けていた、立憲民主制の米国が掲げた思想ですもの。
弟も本を書いた甲斐がありました。
専門学校でしょうか。
アメリカのダブルスタンダードにはホントに腹が立ちます。
ひとりひとりの掛け替えのない価値を認め貴ぶことを。
ただ安倍のように嘘をついりごまかしは少ないかな、似たようなものか、、。
怖いですねえ。
家庭が悪かったのかもしれないですね。