小三治は変わらない・変わった・まっとうな落語家だ 柳家小三治「落語家論」
2014年 07月 12日
志ん生を生で聴き人形町・末廣を知っている俺(年を取っているってことだ)だが、小三治を初めて聴いたのはせいぜい7年くらい前のことだ(このブログの最初の小三治記事)。
落語が好きといっても現役時代はたまに寄席に行くくらいで、誰か好みの落語家を追っかけてホール落語に行くことはなかったのだ。
初めて聴いたときは驚いた。
他の落語家とまるで違うのだ。
おかしいことを言って笑わせようとするのではなく、トレードマークともなっている長いマクラもごく自然に淡々と日常茶飯のことをしゃべっているのに何とも言えない温かな空間が出来上がるのだ。
おだやかな陽射しを浴びて縁側でくつろいでいるような気分になる。
本題に入っても妙なギャグや誇張した表現仕草で笑わせようとせず、簡潔な語り口は清潔感すら漂わす。
それでいていったんそのおかしいワールドに誘い込まれるともうたまらない、「野ざらし」「小言念仏」なんてどれだけ笑ったか。
この間まで落語協会会長の激職?にあったせいか、その高座にちょっと翳りを感じていたが、辞めてからはまた素晴らしい高座だとの噂。
なんとか手に入りがての切符を取って聴きに行きたいと思う(前は何時間も並んで待って聴いたこともあるのだが、その元気がなくなった)。
「そのまま」というところに面白さがある。
50になる前の小三治が若手の噺家や先輩たちに気分よく物申している。
本人はあとがきで、
これでも気兼ねをしながら書いてたのかよとおっしゃるかもしれませんが、そうなんです。これでもとても気兼ねをしながら書いたのです。といっているが、なあに、「(落語界は)人材不足、コレッという人が出てこない」とか「今、第一線といわれて名前が出てくるような噺家に、どうだ!と圧倒させるに値する噺家はいない」、「鼻濁音が使えない噺家が多い」、「今、噺家に一番忘れられていることは、話術の巧みさである」、、言いたいことをグサッと言ってる。
噺家、人間としての筋の通し方がなってないこと、それを教えない師匠の多いこともやり玉にあがる。
もっとも師匠が弟子を育てるなんてことはできない、自分も小さんから稽古をつけてもらわずに”盗んで”育ったと語る。
オレの育てた弟子が駄目なわけがねぇ、なんてわめいた御仁が先ごろもあったようだが、それは、人間がなんたるかの見当すらつけられないのか、あるいは単なるのぼせあがりだ。
固い噺だけではなく、小三治の趣味、食道楽、世相批判、、話題はあっちへこっちに。
そのさまは毎月のネタ探しに苦心しているようでもあって又佳し。
20年以上も前から一本筋を通して生きてきた人だなあ、とそのままの記事を楽しむ。
ちょっと俺に似てるところを見つけてみたり。
昭和50年の「あの頃は噺家だったなあ」という記事で、人付き合いやヨイショなど噺家らしくやろうと頑張って来たけれど、たとえば生まれながら噺家らしい志ん朝などをみるにつけ自分には無理なことだ、そもそも新劇の役者になりたかった俺だもの、と言った挙句に
噺家になるための努力はやめました。努力しても無駄だョ。開き直るョオレは。無愛想がなんでいけないんだ。と書いている。
そしてこう破れかぶれで書いたら、それまでは、噺家らしからぬ噺家といわれていたのに、「さすが噺家さんらしいですね」といわれるようになって、この時の「さらけ出す愉快」がその後の軽妙なエッセイや『ま・く・ら』に続いていったのだと面白がっている。
聴いて佳し読んでも楽しい小三治だった。
ちくま文庫
官房長官がご立腹だとか
TVもすっかり丸め込まれてしまっているみたい
誰が本当のことを伝えてくれるのでしょう
その前にもう全部出来上がっているのかもしれませんね・・・・・
向こうからおいでおいでをしてました。