これも読みごたえがありそうだ 福嶋亮大「復興文化論 日本的創造の系譜」
2014年 03月 06日
読み始めてすぐに「社会の慢性的負傷」などという文章がやや衒学的で、これはお呼びじゃない、早く図書館に返してしまおうと思った。
ところがさっきもう一度めくっていたら、なんと、これが実に面白いではないか。
著者は「誰もが何らかの傷や屈辱を抱えているという一点こそが、今日の私たちのほとんど唯一の存在論的な共通項である」現在、それらの傷から出発して何を建設するのか、いかに立ち直るかが文明論的課題になっているという。
その立ち直りの哲学の手がかりは日本の復興文化の歴史のなかにふんだんに含まれている。
それは骨董品的な手垢のついたものではなく、世界の生み出す新しい課題に応じて絶えず書き改められるような価値体系である。
それを本書で復興したいと企図を明らかにする。
近代にいたるまで、日本文化はつねに復興文化として発展してきたように思われるとしているが、著者も同じ見解をもつ。
その復興は復古という装いを取るのだという。
現実否定=復古=革新。
まず古代日本の復興期の「天才」として柿本人麻呂と空海を取り上げる。
「天才」とは、一国の、あるいは人類の文化の遥か前方の未来を照らし出す灯台のような存在のことだ。
人麻呂がなぜ復興期の天才であるかといえば、彼の歌に後々の日本文学の「現実」になっていく種子、<戦後>の鎮魂文学や古都を「復興」する文学が含まれていたからだ。
人麻呂は日本における詩の誕生を告知したが、それは同時に日本文学の弱点の起源でもあった。
そのわけは生き残った者が敗者の声を聞くという構造であったから、敗者自身が自発的に一人称的に語りだす機会が失われてしまうのだ。
中国の『楚辞』の作者・屈原が自らの政治家としての憂憤を堂々と歌い上げるのとは対照的。
日本の詩歌は中国のそれと比べて芸能的要素が強いぶん自伝的要素に乏しい。
人麻呂とは対照的に空海の文学にはいまだ後継者がいない。
空海は「未完の天才」であり、いつか時をたわめ、現実に帰還する日を待っている。
とまあ、408頁のうち77頁まで読んだのだが、、、こうしてまとめると面白くもなんともないなあ。
著者が博引傍証、古今東西の文献資料をとりだす手並み、そこにひかれる歌や詩を古語辞典を引きながら読み白鳳文化の歴史的背景を知る喜びが抜けている。
しょうがない、とりあえず俺だけで理屈抜きに楽しませていただこう。
空海って凄いです。
でも、マイナスにおもえること見えることだってそれだけじゃないですよね。
昨日会った人、ウィルスをよけるというペンダントをさげていました。
輪になった先には、四角い袋がついていてその中にウィルスを
殺す薬剤がはいっているようでした。
でも、そんなきつい薬剤をいつも身体のそばにおいていたら
その方が体に悪そうっと思ったりして、、
砂糖かなんか入ってたりして^^。
こんど薬やさんに行ったら注意してみましょう。買う気はないけれど^^。