生きることは物の哀れを知ること 辻邦生「西行花伝」
2013年 11月 18日
俺の方もがんばって歩かなきゃ、紅葉黄葉君たちに申し訳ない。
駒沢公園は「東京ラーメンシヨー」でにぎわっていた。
秋の日差しはイイ気持ちだが濃厚なラーメンの臭いにはいささかヘキエキ、カップの中をチラッと覗くといかにもいかにもでますます食欲は出ない。
それにしても食べ比べるのならマイカップでも持参して何人かといろいろ分け合って食べてみないとそんなに食えないんじゃないか、などと喰いもしないくせにうるさい隠居だ。
700頁のどこを開いても深く頷かされる言葉がある。
旅に出てはじめて、人はこの世の森羅万象(いきとしいけるもの)がすべて滅びのなかに置かれているのを、心底から澄んだ気持で知ることができる。たしかに山も風も木々も花も旅の道のべに近々と寄りそって、旅人を慰めてくれる。だが、この不変と思える山も、永遠(とこしなえ)に波を打ちよせる海も、旅人の眼には、限りある生命に見えてくる。山の終わり、海の終わりがそこに見えるのである。北面の武士・佐藤義清が出家して西行と名乗り陸奥への旅に出たときの感慨。
この思いが私のうちに染みこんできたとき、私は、死にゆく幼児(おさなご)を見守る親の眼ざしで、この世を眺めているのを感じた。
―死んではいけない。お前が死んでは、私には生きる意味などなくなってしまう。
私は、そう叫んでいる親の悲しみと物狂おしさで月を見、山を眺め、道ゆく人を見つめている自分を感じたのである。
旅に出ることの意味が解ったのは、この一種の深い悲しみと愛惜が、身の内を貫き、常住、哀傷の風が吹き渡るのを全身で知ったときであった。空ゆく雲も、梢をゆらす風も、決して行きずりのものではなく、すべて私に無縁のものはなかったのだ。旅寝の夜々、枕もとに落ちる月の光は、もはや二度とみられぬ清らかな輝きとなって心に深く染みてくるのであった。
あはれしる 人見たらばと 思ふかな 旅寝の床に 宿る月影
この世に身を受け、こうして月の蒼さを見ていることが信じられないような運命の不思議に思えてくる。前世の奇しき因縁によって、いまこの時、心に澄み渡る怡悦(いえつ・よろこび)を与えられている―そんな思いが不意に心に衝きあげてきて、突然、嗚咽したいような気持になるのだ
軽佻浮薄に日々を蕩尽している俺にもほんのほんのほんの少しではあるが共感できる。
旅をしているのだな、俺は。
そう思って「日々の月の光」をいつもあるものとしてではなく、その一瞬の奇しき縁で出会えたものとして感得して生きて行くのだ。
グルメフェアなど、マイカップ持参のシェア、なるほどで大賛成です。
↓の3枚目の紅葉が映り込んだ水面の写真、最高です!印象派モネの絵みたいでもあります。
モネは現代の高性能(コンデジではありますが)カメラ以上の「見て解像し描写する力」をもっていたのですね。これまた奇しき縁を感得しえたということでしょうか。
色いろピンと来ない私でも、年代的に、少しはわかる部分が増えているはず・・・。
新潮文庫だし、街の大きめな本屋さん行ってみるっと‼
(勝手に課題図書週間 from 佐平次さん してま〜す🎶)
私は近所の古本屋で手に入れました^^。
ほんとに地球環境が滅びつつあるのですから。
向こうから犬が来るとお座りして迎える癖があるので服を着せといた方が汚れないかな。
嵯峨野明月記なども読みたいです。
17日の記事ではありませんが、今日は会社で悲しく感じることがあって、どうにもこうにもならずかなり落ち込んでいました。
帰り道にとても大きなお月様がみられて少し救われました。
西行すてきですね^^
愚痴をこぼしてすみませんでした。
いつもありがとうございます。
だから毎日ブログを書いているのかもしれません。
↓のお月様を見て、あぁ佐平次さんと同じお月様を見ているんだと嬉しくなりました。
辻邦生、初めて読んだときに少し苦手な文だと感じて、それ以来手に取らずにいました。でも、この抜粋部分を読んで、今なら読めるかもしれないという気がしてきました。
西行は出家しても現実社会との関わりを捨てないで面倒なことも引き受けたようです。
こういうイベント(行列に並んでありつける、というようなもの)には、
ほとんど参加しておりません。
長野でも「ラーメン対決!」のようなイベントが毎年ありますが、
少し前に一度だけ参加して、
あまりの人の多さで食欲もなくなり、
何でもいいや、になってしまいました。
我ながら、
実に、損な性格だと思います(笑)。
らーめんショー行きたいなァ。
読み時が来たようです。
辻はそう思って書いたのかもしれません。