落語を楽しむ俺は分裂している自分を楽しんでいる 藤山直樹「落語の精神分析」
2013年 03月 15日
その一人、筆者は落語に取りつかれて、毎年二回、百人ほどの聴衆を前に落語会をやっている。
落語家と精神分析家は似ているという。
多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされ、または一人の患者の人生を賭けた期待に曝されてたった一人で向かいあい、何らかの成果を出すためにはある文化を内在化して、それに内側からしっかり支えられる必要がある。
また、落語も精神分析も分裂した自己を凝視し表出する。
それが観客を喜ばせ、治療に結びつく(ことがある)。
「らくだ」は死体に対する人々の恐怖を前提に、死体を怖がらない屑屋に潜在していた狂気を顕在化させる過程がポイントだ。
与太郎は世間一般の人々が工夫して囲い込んできた「人間の自然」をさらけだす。
それを笑って観るときに人々は言葉と秩序の代償に、永遠に疎外されてしまった何かを感じるから、懐かしく切なくなる。
「文七元結」における長兵衛が文七に50両を与える行為は、自発的であり、自然であり、他者からどう見られるかなどまったく考慮していない。
それは、無私、無欲、つまり母性的なありかたで、観客はそれに対してむせび泣くのだ。
「江戸っ子」という概念はそういう不思議を包摂している。
それは、江戸の人口が圧倒的に男性が多かったことにも由来しているのではないか。
談志の描く佐平次は涙ぐましいほど真摯に居残りに取り組む。
遊郭という器のなかで、十全に「居残り」というできごとを進展させ、その本質のところを体験しきっている。
「寝床」の旦那は、親から受け継いだ店や長屋や土地の上に安楽な暮らしをしているが、真に内的な文化を受け継ぐことには失敗したのではないか。
それで「生きたい」がために、義太夫を聴かせようとしたのではないか。
そういう試みは庶民=店子や奉公人にとっては受け入れがたくグロテスクなものとして描かれる。
「よかちょろ」の若旦那は父親からも母親からも向かい合うことを拒否された孤独な不幸な存在だ。
それが原因で倒錯的、パーソナリテイ障害的な人生を送っていきそうである。
談志の「芝浜」は亭主の内的ドラマの進展によって(女房の説得ではなく)アルコール依存症を克服している。
「粗忽長屋」の熊五郎のサゲのセリフは、「乖離という永遠の静止した死んだ世界に、ふたつの自己が交わることによって、自発性と探求という生の要素がまさに誕生する瞬間が奇跡のように姿を現した」のだ。
人間という考える葦が再び芽吹く瞬間なのだ。死んだ荒地は緑の葦原に変貌する。その瞬間に立ち会っているからこそ、観客は深く安堵する。青々と繁る葦原を吹き渡る風が観客のこころに届き、そのこころを深いところでみずみずしく癒すのである。
死の陰翳を帯びた唯一の落語家だった。
水仙花談志が死んだ完成すという回文の句は談志を表して妙である。
巻末に談春との対談がある。
ときどきソッポになるけれど面白い。
ふだん面白がって聴いている落語をこんなふうに分析されると、はあ、そんなものかとも思うし、ちょっとめんどくさい気もする。
みすず書房
お勉強になりました。
なるほど、芸術家だと不良してもぐれても色々許されますね(笑)
一番下のコブシの裏側のようなお花の写真が素晴らしいです!
最後のコブシは渋谷駅前です。
これは名言ですね。鬱に罹った人は落語を観て治せといってやりたいです。でも、鬱に罹って自殺した落語家もいましたね。ムズカシイ。