死を見つめる詩のような小説 フリオ・リャマサーレス「黄色い雨」
2012年 11月 07日
孤立した村で愛犬とひとり暮らして、さいごは犬を撃ち自分も死んだ男の物語。
木村が翻訳家としてやっていける自信を得た”読んでいるうちに白い炎を感じた”作品だという。
ちょっと紹介されていた、その小説が心の片隅にひっかかっていた。
そうしたら、現代の兼高かおるさんみたいなtonaさんの西オーストラリア旅行記のなかに
CANNAの最後の住人フランクさんの家(写真紹介)という文章があって、がぜん読みたくなった。
フランクさんは奥さんと子供が亡くなったあと、愛犬2匹と暮らしていましたが、自分の最期がきたので愛犬2匹を射殺して病院へ行き亡くなったそうだ。一間にベッドとオーブンがあるだけのシンプルな生活だったようだ。
「黄色い雨」は、主人公の終末に向けての重要な折節に降る。
さいごは村すべてを黄色く染めてしまう。
ポプラの枯葉なのだ。
村人がすべていなくなって、息子にも去られて、妻は首を吊る。
共にいるのは”雌犬”、生まれた時に兄弟は捨てられて親も死んだので、妻を母として育った犬。
他に犬がいなくなっていたので、区別する必要もなく、名前をつけられなかった。
雌犬だけが主人公を最後まで見放さない。
”どうして銃口が自分に向けられているのだろうかと訝しそうな顔で私をじっと見つめた”。
人間にとってもうひとりの人間ほど恐ろしいものはない―この両者が同一の人間である場合はとりわけそうである。荒廃と死に囲まれて生き延びる唯一の方法、孤独と狂気に陥るのではないかという不安に耐えうる唯一の可能性それは周りに厚い壁を築いて、記憶とともに生きることだった。
心の中に忍び込んだ孤独が記憶の隅々や窪みのひとつひとつを強い光で照らしだす。
言葉が生まれる時は、そのまわりに沈黙と混乱が生じるが、それと同じように記憶もまた自分のまわりに厚い霧の壁を作り出す。物憂い歳月が追憶の上に厚く変わりやすい霧の壁を広げ、記憶を徐々にこの世ならぬ奇妙な風景に変えていく。しばらくして、私は理解した。どのようなものも以前と同じではない、思い出といっても、しょせん思い出そのものの震える反映でしかないのだ、また、霧と荒廃の中に消え去った記憶を守ろうとするのは、結局は新たな裏切り行為でしかないのだということを。どうやら主人公は死んでいて、自分の孤絶した最後に至る人生や、雌犬と暮らす最後の日々を語っているようだ。
それは詩の断章、独立しているけれど連続もしている、詩のような独白。
夢や幻想ではなくて現実、雌犬もそう受け取っている。
始めは避けていたが、次第に慰められる主人公。
大気が私の目を黄色く染めていく。
もはや枯葉の黄色だけではないようだ。
能の世界。
能もこの小説も死や亡霊を恐れない。
死との親和。
死を書くことは生命の輝きに対する感動、慈しみも書くこと、美しい自然の移ろいや荒ぶる動物のことも描かれる。
哀切で透明。
あとがきで訳者は作者の
自分にとって詩は祈りのようなものですが、祈りにも似た思いを散文でも表現できるようになったので、小説や短編、紀行文を書くようになったという言葉を伝えている。
まさに、祈りを感じる。
木村榮一 訳
ソニー・マガジンズ
静かだが私には未だ理解しがたいなまなましい時間があの中にはあった。
ソーローの『ウォールデン森の生活』やリチャード・ブロンネクの『独りだけのヴィルダーネス アラスカ森の生活』は数年で人いる町に帰るので、小説の孤独とは全然違います。祈る生活ですね。
ポイントがはずれてすみません。
この小説の主人公は百年以上続いた家を守ろうという気持ちがある(途中まで)のですが、フランクさんはどうなのかなあ。