略語、漢語は差別語の入り口かもしれない 田中克彦「差別語からはいる言語学入門」

デレクショを書いてくれ。隣に借りに行ったら、このあいだまではあったけど、って引き出しの奥を探したけれどなかった
無学な男が代書屋へ履歴書を書いてもらいに行く、大好きな落語「代書屋」だ。
ふんふん、じゃあ、尋常小学校を中途退学、と(代書屋が書くと)

ちゅうとたいがく!そういわれると立派に聞こえやすねえ!
そもそも「学歴」「職歴」「生年月日」「本籍」、、漢語がちんぷんかんぷん、すべてわからないから、抱腹絶倒の珍問答になる。
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本書の著者、田中はいう。
ことばは誰でも話せるという点で人は対等であるが、それを書く段になると、決定的なサベツが生じる。
大学院にまで行った言語学者である田中はバラの薔薇が書けないし推薦状も辞書をひかないとかけないが、「薦」が書けるようになれば、それだけ思想が深くなり、人格も高潔になるとも思えない。

言語エリートではない、人民とか民衆とか常民とか言われる人たちがいなくては言語共同体は成り立たないのに、言語エリートたちの必要とか趣味によって規則を決めて学校を通じて押しつけてくる。

社会的に肉体的に差別されている人たちが、自分たちに対して、これこれのことばを使ってほしくない、使わせないと声をあげた、差別語糾弾運動は人間の言語史の上ではほとんど考えられなかったできごとだった、と田中は評価する。

差別語糾弾運動は、1969年に東大名誉教授であった大内兵衛が、雑誌「世界」で、教授会を「特殊部落」(今ならさしづめ「原子力ムラ」とか端的に「東大教授会」かも)とののしって書いたところ、書かれた教授会ではなく、「特殊部落」から抗議の声があがったのがきっかけだった。
この運動は従来の左翼とか右翼ということに限らず、独自の原理で批判対象を選んだ。
発言されたことの全体、日本の政治・文化にとって好ましいかなどとは関係なくことば、表現がそのものが、自分たちの利益に合致しているか否かの基準によってのみ糾弾が行われた。

人間と言語と文化との関係の中で、言語とは何かを考えるのに、差別語糾弾運動は、言語の本質をきわめる手がかりとして活かせるはずだ。
それが、田中が本書を書いた理由である。
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ことばは、単に何かあるコト、ある事態を指すだけにとどまらず、それらをどのように見るかという観点を与えるという、ある意味での豊かさとやっかいさをもっている。

ことばは現実のみならず、人々の意識、精神世界の領域のできごとを描き出そうとする。

ことばのたたかいは、観点ーものの見方のたたかいでもある。

差別狩り、というけれど、差別語は狩りつくして終わるのではなく、作りだされている。
むしろ「差別語生み」「差別語作り」というべきだ。
「北鮮」ということばは差別語かを論じ(頭の「朝」を取ってしまうのが、ひどい!という感情論に、じゃあ、京阪や阪神はどうなんだ)、サベツ語には言語の原理からは説明できない、特別な状況から来る感情的価値もあると言いつつ、、実は「略語」の差別性を論じる。
とくに専門家とかグループだけに通じるローマ字アルファベートのもの。
使っているひとにはきもちがいいかもしれないが、その代償として、その聞き手と、自分あるいは自分たち専門集団の間に深いみぞを作り出してしまうだろう。すなわちあらゆる略語は、潜在的な境界線と差別的な空間を作り出す方向にはたらき得るものだ。
代書屋の「職歴」「学歴」、、は明治官僚たちがつくりだした権威を感じさせることばかもしれないなあ。
業界人たちの使う変なことばも、逆差別みたいな、変な感じ。
若者たちが使うワケワカ(これもそうだ)なカタコト(カタコトの「片」、カタワの片についてもその意味を考察している)もある種の、この言葉がわかるもんしか相手にしないという縄張り宣言かもしれない。

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「トサツ(屠殺)」ということばのむつかしさは、自ら育てた罪のない生き物の命を犠牲にする人類苦とでもいうべき深い苦悩が背景にある。
「カラス」「コロス」「シトメル」「ホフル」「出す(モンゴル語)」、、やはり「トサツ」は役所言葉だ。
料理番組で「アサリは水から煮るとおいしくいただけます」というのを聞いて、何というひどい感性の持ち主だろうと思う田中先生は、これ以上は沸騰しないというところまで待ってから、一気にふたが開くようにしている。

むつかしいことを平易な、ユーモアのある文章で説く先生は心の優しい先生なのだ。

心は優しくても、先生は闘う人だ。
闘いの対象は
「今のこの日本の最もいい文章を守る」とゆってる、文壇ボスどもね。じつのところ彼らはそれによって言語的抑圧の根拠を作り出すという点で国家の手先だもんね。
ボスどもの「文章読本」をいろいろ読み、”名文”をものす作家に親炙し、自分もその猿真似(親炙なんちゃって)をする俺なども国家の手先なのか。

落語を聴くのは心のどこかで無学な職人たちのバカげたありようを上から目線で楽しんでいるのだろうか。
そうじゃない、共感しているんだ!いいなあ、こういう生き方!って、難しいことを知っている代書屋を屁とも思わない。
どうもその間をふらふらしているようだ。

ちくま学芸文庫
Commented by 旭のキューです。 at 2012-06-20 12:10 x
差別用語といえば、「部落」ですが、我が近所では、「あそこの部落でよ~・・・」と平気で話しています。
Commented by saheizi-inokori at 2012-06-20 19:23
旭のキューです。さん、部族という言葉もダメという人たちがいるようです。
Commented by hisako-baaba at 2012-06-21 06:17
この本面白そう、図書館で探します。
父の日のプレゼント素敵!
素晴らしいご家庭を築いて来られたのですね。
Commented by maru33340 at 2012-06-21 07:26
この本、次に読もうと買ってあります。やはり、面白そうです。
Commented by saheizi-inokori at 2012-06-21 10:06
hisako-baabaさん、お薦めです。
ことばに対する見方が変わりました。
Commented by saheizi-inokori at 2012-06-21 10:07
maru33340さん、表題がいいですね。
敵をたくさん作る本だと思います。
味方となるべき人はこういう本など読まないかもしれない。
Commented by junko at 2012-06-21 17:45 x
Ciao saheiziさん
私がフィレンツェを嫌いなのは、その文化が民の暮らしとかけ離れていると感じるからです
民の暮らしから生まれた文化は、ほほ笑んでしまうような暖かさ、また自己風刺があって、どれもこれも味わい深いです
だから江戸の文化が好きです

落語も、まさに民の娯楽でしょうね
お殿さまもその昔は聞いたのかなあ
Commented by saheizi-inokori at 2012-06-21 20:07
junko さん、今やアメリカでは金持ちは自分たちの税金で貧困層をケアするのに耐えられず富裕層だけの行政区を作りその行政事務も民間に外注しているそうで、国家が崩壊しつつあります。
日本も同じ道を歩いているように見えます。
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by saheizi-inokori | 2012-06-20 10:52 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(8)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori