サラよありがとう! 映画「サラの鍵」
2012年 01月 12日
隠居のくせに”やっと”とはなんじゃい?とご不審の向きもあるかもしれないが、○○のついでに何かをしようというのがよくないのだね。
少しづつ非活動的になって出不精になっている。
どうせなら病院の帰りとか夜の落語会などの予定に合わせて、と思うがなかなか上映時間が合わないまま、まあ、そのうち何とか、で過ぎてきた。
そのうち何とかで見損じた映画や展覧会の多いこと。
今度は最初からこの映画を観るだけのために一日を”設計”した。
要するに2時過ぎには家を出て末広亭のことなんか放擲して武蔵野館に直行するのだ。
といいながらついでにセブンイレブンで入金しようと店を探すセコサ、それにしても新宿駅周辺はセブンイレブンがないんだなあ。
やっぱりがんばってよかった。
ことし初めての映画は最高だった。
隣にいた紳士が終わりごろはハンケチ取り出して、、女性客の方が多かったが、泣いているのは男の方が多かったかもしれない(男子用トイレの目撃だから無意味ですが)。
あらすじとかは↑のHPなどで見ていただくとして、なぜ俺は泣いたか?
ナチスのお先棒を担いだか自らの差別心からか、言われもない恐怖ゆえかフランス政府により収容所に送り込まれたユダヤ人たちの運命の悲惨・苛酷さに打たれたか。
たしかに今予告編の映像を見てちいちゃなミッシエルが納戸に入っていく後姿を見て、その後の彼のことをちらっとでも想像すると胸がつまってくる。
が、それだけではないようだ。
彼ら、特に主人公の少女の極北をいくドラマ、それを半世紀以上を過ぎて追いかける女性ジャーナリスト(こっちも主人公だ)の真率な生き方がドラマティックな展開によって浮き彫りにされる。
その彼らの生き方に照らし出されるように周囲の人々の生き方も明らかにされてしまう。
平穏なときなら何も意識されていない、する必要もない命とか家族・人生に対するスタンスの基本が問い直される。
だってユダヤ人(○○人、××人)の差別・虐殺があったその歴史の上に今自分たちが何食わぬ顔をして暮らしているのだもの。
そんな大げさな話をするまでもないじゃないか。
過去の人生で俺は卑怯にも直面した果たすべき義務を放り出して逃げ出したことがどれだけあるのだろう。
映画を観ているとチリチリと刺すような後悔がわいてくる、ときに漠然と、ときに具体的に。
俺が債務を負う人々が今にも現れて、さあ、あのときの貸しを返してもらおうじゃないか、と言われたら俺は白目をむいて倒れてしまうのではないか。
俺を責めることをせず、このように生かし続けている者たちに感謝をし、自分をもう一度責めて涙を流すことで少しでも荷を軽くして、、そうしてまた老残を生きていこう。
サラよありがとう。
君の鍵がさび付いていた俺の心を開いて涼やかな風を通してくれたから俺はまた生きていくよ。
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「悲しみの果てには未来の光が広がっている」、そうであることを祈ります。
その上に私は安楽な暮らしをしています。
最近、涙腺がゆるゆるです。;;
でも、観る前から泣きそうだわ・・・。
最近のマイベスト10間違いなしです。
わたしは一昨年だったか、本を読んでから映画館で見ました。ぐっと来て、そのあと何日も引きずったけれど、ついに泣けませんでした。辛くて悲しくてたまらないのに泣けないことってありますせんか?
さよなら子供たち。。。を、思い出しました。
きっとわたしは号泣するでしょう。
ナチスものではないですが、以前 初恋の来た道を映画館で観たとき、中年の男性の方々が涙しておられました。
男性の方が繊細な感受性を、年を重ねても持ち続けている方が多いのかしれませんね。
私は。。。。これも号泣でした。
私の住んでいる地区は今でも多くのユダヤ人の方々が住んでいますし、うちの子どもが通っていた幼稚園でもかつて、収容所に連れて行かれた子ども達が何人もいたという事実が幼稚園の入り口にくっきりと刻まれています。
愛らしい姉弟の姿を見ただけで、もう泣きそうですが、ぜひ見たいと思います。
是非観たいものです。
この映画は悲しいこともさりながらこの年になって自分の過ぎ越し方を顧みての涙だったように思います。
隣の紳士も?^^。
女性は恥じることなく家族のために必死に生きてくるからあまり”反省”する余地がないのか、なんていえば叱られちゃうかもね^^。
女性は純粋に子供たちが可哀そうという悲しさが前面に出て、、。
世界はそういうものなんでしょうか、そういう世界で落語を聴いて生きています。
その上に私たちの安穏(に見える)生活があると思うとつらいです。
原発に限らない、世界中の差別虐待の歴史と現実の上の幻のような生活。
さらに自分自身の背信や裏切りの人生が。
こういう名作映画をよそに、ひたすら落語だ寄席だとうつつを抜かす亭主に、ここのところ冷たい視線が送られています。「どうせ噺家が白粉つけて待ってるんでしょ、ふん」なんて。
あ、でもいつも留守にされても困るかなあ^^。
10年くらい前に初めてサルガドの写真展をみた時のことを思い出しました。
その時、saheiさんの仰る通り私たちの豊かな生活や平和は
差別や搾取の上に成り立っているということを知りました。
震災と原発事故が起こり、それをますます実感する毎日です。
構造はどこもここも同じようなもの、個人が小さいレベルで搾取されていて苦しんでいるように、それ以上に私たちの社会ぐるみで他の社会にひどい事をしている。
この世界で豊かな暮らしをしている人間すべてが、正義感まんまんで格好いい事を言う資格はない、という冷徹な事実がいつも心に突き刺さっています。