”だめ人種”って存在するのか ジョナサン・リテル「慈しみの女神たち」
2011年 11月 10日
上下9000円、現職時代ならさっさと買っていたけれど今じゃそげな贅沢は素敵だけど出来るもんじゃない。
いかに効率的に、処刑する者たちの精神的・物理的負担を少なくするか。
<鰯の缶詰方式>、自分たちで掘った穴の底に服を脱がされた死刑囚(ユダヤ人がほとんど)はうつ伏せで横たわり、射撃手たちが至近距離から首筋を撃つ。
何列かの処刑のあと、将校が巡視して死んでいることを確認したら、その上を薄い土の層で覆い、次のグループが今度は脚と頭を反対にして横たわる。
それを5層か6層積み重なると穴を埋める。
ソ連に攻め入る途次、カフカスの山岳地帯に住むベルクユーデンという民族集団がユダヤ由来の人種なのか、そうではないのかが問題になる。
もしユダヤ人種だとされればそこに住む者たちは皆殺しだ。
国防軍はその民族がナチスに協力的(外見上は反ソ)だから周辺民族との友好関係を維持するためにも、彼らはイラン系だという。
民間人の国家社会主義信奉者たちが多い、SSはそのユダヤ問題最終解決という信念からも彼らが第一神殿破壊後のバビロニアからやってきたユダヤ人だという。
スターリングラードにおける戦線は日増しに悪化(ナチスにとって)しているのに国防軍とSSはこの問題でなんどか会議を行う。
人種と言う概念が政治的に決められることもある(だから↑の結論は国防軍の思惑通り先送りになる)。
この人々について云えるただひとつのことは、彼らがイラン系言語を話し、モーセの宗教をおこない、カフカスの風習にしたがって生活しているということ。それがすべてですよ。
あなたが云う人種が何なのか、どうか説明してください。
なぜなら、わたしにとってそれは、科学的に定義不可能な、したがって理論的価値のない概念だからです。
人間が作る集団は、言語、宗教、風習、住居、経済的習慣、あるいは彼自身のアイデンティティ感情以外で定義することなど、なんの意味もない。
しかもこうしたものはみな、獲得したものであって、生来的なものではない。
人々の集団を定義するような言葉、たとえそこに生まれ育たなくったって、方言を共に話すことで集団の仲間に入っていけるのではないか。
旅先で方言を話す人に接すると俺までいっときその地の豊かな文化や伝統にくるまれるような気がする。
ナチスの連中は愚かだと思う。
しかし主人公(SS所属の法学博士)を始め彼らは世界でもトップクラスの知性に恵まれていたし自分のやっていることをちゃんと意識していた。
精神的に、ついではソ連との戦線で肉体的に極限まで追い詰められても自分たちが祖国に忠実であることを疑わない(上巻の終わり、そろそろ壊れかけてきたようだが)。
あれから人間はどれだけ変わったか。
突然のようだがTPP推進派の人たちはズルイと思う。
犠牲なき改革なんてない。
たとえばTPPにより格差拡大、農業の衰退は間違いないと思う。
推進派もそのことは分かっていてなお輸出拡大しか日本(自分)を救う道はないと信じている(ようだ)。
そんなら「貧しい人たちは自己責任で這い上がりなさい。農業も頑張って成功しない人たちが落ちこぼれるのは覚悟しなさい」とちゃんと云えよ。
え?それをいっちゃあおしまいだァ?
ナチスの話とどういう関係があるか、って?
あるような気がしないかい、友よ、俺もよく分からないけれど。
フクシマの話にも。
菅野昭正・星埜守之・篠田勝英・有田英也 訳
集英社
私はこの歳になって、知らないことが多すぎると痛感。項垂れてしまいます。
世界はあの時代の愚行を繰り返そうとしているようです。
大きなドラマが眼前で展開しつつあるのですが、一向に面白くないのは、人間があまりにも愚かになってしまったからでしょう。大阪では阿呆が騒いでいます。それを私のような阿呆がボケーと見ています。
第二次大戦もホンのちょっと前のことなのですねぇ。
買っておけるならゆっくり読めばいいのですから。
記事に書いたように“人種”なんてないと思っていますが。