新工夫が当たった「天鼓」 第90回粟谷能の会
2011年 10月 12日
すでに能楽鑑賞講座で演者自ら今回の演能の新工夫などを聴いていたから興味津々だった。
能「天鼓」
シテ・天鼓の霊・天鼓の父・粟谷明生 ワキ・勅使・森常好
大鼓・柿原弘和 小鼓・大倉源次郎 太鼓・観世元伯 笛・一噌幸弘
アイ・野村太一郎 地謡・頭・出雲康雅
天から降りてきた鼓を持つ、その名も天鼓少年は帝から天鼓を所望されたが断ったために怒りを買って漏水(川)に沈められてしまう。
その鼓を内裏で打っても音がしない。
帝は天鼓少年の父を召し出し天鼓を打ってみろと命ずる。
恐る恐る老父が
老いの歩も足弱く薄氷を踏む如くにて 心も危うきこの鼓 打てば不思議やその声の 心耳を澄ます声出づる げにも親子の証の声 君も哀れと思召して 龍顔に御涙を浮かべ給ふぞ有難き可哀そうに少年を殺しておいて涙もないものだ、と思うけれど、帝が打っても鳴らぬ鼓が父が打つと鳴るというところに芸能者の権力者に対する密かなレジスタンスがある、と明生師は云ってた。
そんな解釈と関係なく老残の父のよろよろ一畳台に登る姿、打って鳴った後の力を得た足取りなど素晴らしかった。
帝が天鼓少年を弔って法事を行うと少年の亡霊が現れ、歓びの舞=楽を舞う。
お囃子を普通より調子の高い盤渉として太鼓を入れたのが今回の新工夫だ。
太鼓のない演奏など考えられないほどぴったりだ。
久しぶりに聴く一噌幸弘の笛が凄い。
太鼓を前面に打ちならす小鼓や大鼓を背景に天から龍が舞い降り水際をうねり舞ったかと思うと高く高く天に昇り又急降下して来てやがて天翔けていくようだ。
そのなかで冒頭のシテの長いセリフをカットすると語っているが他にも途中でワキのセリフがカットされている。
これもとてもよかった。
俺が能に魅力を感じる理由の一つはくどくどしくない点にある。
簡素な舞台で簡潔な筋書きとセリフが快いのだ。
お囃子とか地謡は音楽的だから少々長くてもむしろ気持がいいけれど心境を吐露するセリフなどはあまりくだくだやられるとだれてしまう((俺は)。
伝統を守る能の社会で今回のようにいろんな新機軸を打ち出すのは勇気と自信がなければできないことだろう。
しかし能の良さが多くの人に受け入れられるためにはこういうチャレンジは必要なのではないか。
少なくとも俺はとても楽しいひとときを過ごせた。
他に狂言「謀生種」
伯父 野村萬 甥 野村扇丞
伯父と甥との法螺吹き合戦、琵琶湖の水を茶に立てて湖を飲みほしたとか富士山にカンブクロをすっぽりかぶせたとか、、大らかで楽しい。
能「井筒」
シテ・粟谷能夫 ワキ・殿田謙吉
大鼓・亀井弘忠 小鼓・観世新九郎 笛・一噌隆之
アイ・野村扇丞
地謡に友枝昭世が出るはずなのに長島茂に代わってがっかり。
そのせいか今まで観た「井筒」のような感興を覚えなかった。
シテ・紀の有常の娘の亡霊が序の舞を舞った最後に井戸を覗きこみ幼馴染の業平と過ごした昔、それから遥か年を経たことをしみじみと想うところではほろっときたけれど。
私も広島がなければ見に行きたかったなー。
幸弘さんは違いますね。とくに天鼓の楽みたいなのはぴったりです。