共生の意味を知る 高木仁三郎「宮沢賢治をめぐる冒険 水や光や風のエコロジー」
2011年 08月 29日
宮沢賢治を語る講演録が三つ収録されている。
賢治を語りながら高木自身を語っている。
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから最愛の妹・としの最期を書いた「永訣の朝」。
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・
安らかに永遠の眠りにつかせるための、そういう役割としての雪、水のイメージ。
賢治にとって水は
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分でそれをわたくしが感じることは光や風ぜんたいがわたくしなのだ。「やまなし」という詩のなかで水の中から天井の青い焔をみあげているのは賢治自身でもあるのだ。
高木の大きな発言を聴こう。
いま、環境問題というなかでの水の汚染ということが非常に問題になっています。しかしわれわれが一般に問題にするのは、飲み水が危ないということや空から酸性雨がふってくるということだと思います。そういうふうに「汚れ」という形で問題にしなければならないのは、確かに大きな深刻な問題です。しかし水というものは、それだけではなくてもっと広いものなんです。さっきクジラの声を聞いてもらいましたけれど、水の中の世界全体、私たちを取り巻いている非常に大きなもの、その中を水が流れることによって、生命も流れてゆくし、時間も流れてゆく。そういうもの全体が水であって、そういう全体を私たちが失おうとしていることが、大きな問題なのです。「銀河鉄道の夜」は、そういうものとしての水の流れ=4次元の流れ=時間の流れを描いたものだと高木はいう。
自然の大きな全体というのがあって、人間はそれに取り巻かれた一員でしかないんです。人間があって環境があるのではない。全体があって、その一部に、点のような存在として人間がある。
そして高木は原発の問題についても
根本は一つ一つの計画ではなくて、そういう人間と自然の在りようの根本みたいな所を、もう少し変えていかないと、いつまでもゴルフ場計画や原発計画とのイタチごっこをやっていなければいけない。というのだ。
水俣病の戦いの闘士であった緒方正人は患者として闘争を率いたのち、認定申請を取り下げて「本願の会」で独自の活動をしている。
その緒方が「チッソは私であった」のなかで
わたしは海山と繋がりたい。そして人間だけでなく自然に対する信頼を持っていたいと思います。これははっきりしたわたし自身の意思なんです。と語っている。
労働と土地を商品化している現代の社会システム、その中で水俣病で父や親族が死に、狂い、苦しんでいる緒方自身もシステムの一員として加害者=チッソであると気がついたという。
言葉は違うけれど高木と緒方の問題意識は通じるのではないか。
高木も“非常に大きな一つのシステムの一つのコマになって自分の中の人間的なものがどんどん殺されていき、その分だけ、科学そのものも人間から離れていき、自然破壊や人間の抑圧となって現れることに”耐えられなくなって市民科学者の道を選ぶ。
それは賢治が羅須地人協会を始めたときの言葉、
われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をに激しく呼応するものであった。
われわれのものにできるか
「グスコーブドリの伝記」のなかでブドリは”すぐれた科学者”ではなく普通の人間として犠牲になって死ぬ。
だがそれは悲劇ではない。
一つの死が新しい生に連がるような在り方、これが共に生きるということです。共に生きるというのは、いまの世代同士が共に生きると同時に、これから生まれて来る世代と共に生きるということも含んでいなければならないのです。こういう時間を超えたというか、いやむしろ時間の流れを包含したというべきでしょう。それが「エコロジー」という言葉にかける意味なのだと、賢治も同じことを考えていたはずだと高木は言う。
そして高木は賢治の「羅須地人協会が失敗だった、挫折だった」と単に切り捨てる考え方を強く否定する。
この(あえて言えば)挫折は私自身を含めて、私たちの間に多くの、実に多くの実りをもたらしたように思います。この挫折がなければ、彼がむしろ成功していたなら、これほど多くの実りにつながらなかったのではないかとと思うわけです。そういう意味において、彼は一つの循環を生きたのであって、彼が土に還って、そこからまた多くの生命が生まれ、多くのブドリやネリが生まれたのです。俺はこのくだりで涙がこみ上げてきた。
賢治、高木仁三郎、、彼らの後ろ姿を見失わないようにすること!
高頭祥八の挿し絵が素敵だ。
社会思想社
うわ―おもしろそ読んでみたいわ、この本
>根本は一つ一つの計画ではなくて、そういう人間と自然の在りようの根本みたいな所を、もう少し変えていかないと、、、
確かにその通りですよね
原発一基一基の是非を正すのでは、膨大な時間がかかる
それよりも、根本に立ち戻れば、あれはだめだと言う話になり、すべての原発の必要性、存在性が一気に否定されるわけですからね
私たち、新しい未来を築くにあたり、過去を今一度、特にその犯した過ちも含め、見直し認識し直すことが求められていると思います
この本もお薦めします。
でも日差しは結構強いのです。
なんだか現代人そのものですよね。
久しぶりに宮沢賢治を読み返したくなりました。
佐平次さん、このところ快調に読んでいらっしゃいますね。
読む自分が同じ思いをもっているからか。
そうそう、あんたもそう思うかぁ!というような気持になりながら読んでます。