行間を読む演出が今に生きるシエイクスピアを創る 松岡和子「すべての季節のシエイクスピア」
2011年 08月 28日
シエイクスピアをなんども観ている人にはたまらないだろう。
シエイクスピアをほとんど観ていない俺だって面白かったんだから。
「マクベス」では仏壇「リア王」ではひび割れる大空、「テンペスト」では能舞台を使った蜷川の言葉、
実はね、僕は、基本的には戯曲に書かれていることはちゃんとやるし、ト書きもきちっとやる。書かれている限りは全部やるけれども、書かれてないことは何やってもいいんだって思ってる。だから書かれてないことを足すんだ。そのことを喜志哲雄は
観劇という行為は読書という行為によっては得られない情報を提供してくれるのであり、それを求めてひとは劇場へ行くのである。と言っているそうだ。
シエイクスピアはほとんど登場人物の年齢、容姿などを明らかにしていないし、ト書きも少ない、小道具の指定もない。
それだけ演出家の腕の振るいどころが多いということだ。
「尺には尺を」のマリアナを美人ではなく“ブス”にして初めて見えてくるものがあり、「オセロー」のデズデモーナを10代としてそれまで疑問に感じていた諸々が氷解したという。
デズデモーナがオセローに絞め殺される直前に吐く
殺すなら明日にして、今夜は生かして!オセローがなおも両手に力を込めると
せめてあと半時間!松岡さんは
ああ、こんなにも生きたがっているのに、、、。今夜生きられたらどうするつもりだったのだろう。幼さの残るデズデモーナの口からこの言葉が洩れるとき、その死の無念さは一層つのる。と書いている。
さまざまなアイディアは徹底的なテクストの読みこみと熟慮、その上で行われるリハーサルの間に浮かんでくるのだということは「深読みシエイクスピア」でスリリングに語られたことでもある。
東の「東海道四谷怪談」、西の「マクベス」、なんのこと?
どちらもジンクス芝居、いつ頃からかイギリスやアメリカの俳優たちは「マクベス」の舞台以外ではその台詞はおろかタイトルすら口に出すのはタブーとされている。
ロイヤル・シエイクスピア・カンパニーでは主役の俳優は毎日劇場の回りを三回まわってから楽屋入りするそうだ。
もう一つ面白かった話。
小劇場系の劇団が、オリジナル作品よりもシエイクスピアを好んで上演する傾向があることについて、蜷川はこう言う。
オリジナル作品が袋小路にはいってるんだと思う。ひどく痩せ細ってきてる。そのときに、古典へ戻って自分に対する整理をしようということー古典というのはやはり時間の堆積を経て、どんな眼差しにも耐えられるだけの中身があるわけだからーそこで、観念や演劇観そのものを含めて問い直すことをせざるを得ない。疲弊してるんだと思うよ、現在が俺はちょっと落語の古典と新作のことを考えてしまった。
どうも新作ってのがつまらないのは現在の疲弊の故なのか。
このブログを読んで頂いている方とひょんなことからお会いすることになったのだ。
日本の放射能に嫌気がさしてメキシコへ行って日本人を受け入れる美容学校を創るという、シーベルト星人が逃げ出しそうな元気いっぱいのオーラを発散して居合わせたお客が感動していた)
「深読み、、」と本書を読んでやっぱりシエイクスピアを観たくなった。
今まで、シエイクスピアも歌舞伎も文楽もろくに観てこなかった。
それはそれで仕方が無いことだが隠居になった今、一本でも二本でも観て冥途の土産にしたいものだ。
ネットというのは便利なものですぐに俳優座の「じゃじゃ馬馴らし」「夏の夜の夢」二日分なら5500円という切符を取ることができた。
楽しみが増えた。
筑摩書房
嫌気がささなくてもメキシコに行きたい。
(東京かわら版も送ってもらえるようにしました。)
saheiziさんには、いろいろな本を紹介していただき、感謝、感謝です。
この秋は、文楽も歌舞伎もよい公演があるようですよ!