”想定外”とは原発建設が不可能になる”想定” 田中三彦「原発はなぜ危険か」(1)
2011年 04月 07日
班目委員長の「二度とこのようなことが起こらないようにしたい」と云う言葉は要警戒だ。
二度と起こらないようにしながら原発は推進したいと云う意味が透けている。
事故をどのように想定するかは、あくまで主観的な「選択の問題」である。別な云い方をすれば、想定事故には、意識的であれ、無意識的であれ、ある種の価値や時代精神が明確に投影されていると考えねばならない。すべての壁が崩壊するような最悪事故が想定されない理由は、おそらくたった一つ、「そのような事故想定は原発の建設を不可能にする」ということだろう。そう言えば上の班目委員長がどこかで「原発のリスクはどこかで割りきらないと成り立たない」というような発言をしていたのではなかったか。
言葉を換えれば、安全評価で採用されている重大・仮想事故とは、原子力発電所を建設するという目的を不可能にしない範囲で「こんな事故を想定してみました」ということでしかないと思われる。
いくら反省・陳謝しても「原発建設を可能とする範囲での“二度と起きない対策”」をもとに新たに原発を推進することは許されない。
さらに田中はこういうことも云っている。
原発の技術・知見は年々進歩改良されて行く。
敦賀1号機が作られたときの設計の考え方はこの発電所が稼働したときの考え方とは既に相いれないものとなっていた。
たとえばこれから敦賀1号機とまったく同じものをつくろうとしても、安全性という視点から国はそれをけっして許可しないはずだが、いわば、国みずから否定する原発が今日多数運転されている”現実”は、けっして忘れられてはならない。建築の世界では「既存不適格」と云って建設時に適法だった建物がその後の法改正の決めには抵触しても、建て替えないでも良いという考え方があったような気がする。
原発の場合は、一度でも大きな事故を起したらそれでおしまい、既存不適格というわけにはいかない。
本気で絶対に安全な基準をつくるということはすなわち原発の存在を否定することになるのではないだろうか。
もし、そういうものが出来たとしても、その基準で現存する老朽原発の実態を見直したら運転停止をしなければならなくなるのではないか。
そうすることが“二度と起きない、起さない”ことになるのだと思う。
副題「元設計技師の証言」
岩波新書
もうやめましょうという人はあまりスタジオには招待されないような気がします。福島がこんなになっても。
しかし、、。
今でもフクシマは特別な事故で原発は必要だと思っている人の方が多いのではないでしょうか。
思います。 私なんて、原発の近くで色々な事を見聞きしてきた
にも関わらず、見てみぬふりしてきましたから。
東電は多分リスクを否定し、リスクに備えない事が
原発の安全性を誇示する事だとそう、考えていたのでは
ないかと思います。 原発のリスクヘッジを真剣にしようと
する人は”原発反対派”のカテゴリーに入れられて、遠ざけ
られてきた、 反・推進の愚かな二元論に陥って、目の前に
ある不備に気付かなかったんですかね・・。
今日、怒りにまかせてブログを書いてしまいましたが、現在
進行している海水汚染、土壌汚染は陳謝された所でどうにも
なりませんよ・・・実際問題。
微力でも、少なくとも違うベクトルで動きたいと思います。