世論・世の中の常識を疑え 加藤陽子・佐高信「戦争と日本人」
2011年 03月 10日
日本の近現代史を振り返ってみたとき、現実に対する義憤や短慮によって、未熟なものたち=子どもが早まって事を起こし、その結果、本来は歴史が必要とした「大人」の死体が累々と横たわる風景があまりにも多かったことに驚かされる。「子ども」とは未成年というより、そういうことを起してしまう気性のあり方をさしているのだ。
原敬、犬養毅、浜口雄幸、井上準之助、高橋是清、浅沼稲次郎、、経済においては国際主義、外交においては協調主義、内政においては議会主義の人々が多い。
加藤は久野収の
状況に支配されるのではなく、状況を支配しようと試みた政治家は、ほとんど例外なく暗殺にであっている。思想をもった政治家らしい政治家はほとんど襲撃を受けた(「憲法の論理」みすず書房」という言葉を引いて、至言であるという。
大正期に内務省の肝いりで展開された青年団・処女会というような運動は、修養、勤労奉仕、冠婚葬祭の簡素化など“非政治的な”テーマで若者を急速に集め、それが国防婦人会、愛国婦人会などに発展しファシズムを支える草の根となる。
中央政治に見切りをつけて減税を旗印にした地域新党の動きとどこかだぶらないか。
修養団的な組織運営は今も大企業の多くに脈々と生きていると佐高は日立、パナソニック、東芝、住友系企業に続けられる「みそぎ研修」を指摘する。
「不幸の均霑(きんてん)」、徴兵制の強化により”みんな不幸になる=特権階級がいなくなる”、が国民が意外に戦争を支持した気持ちの背景にあるのではないかと加藤はいう。
そして彼女も云っているが、菅の「最少不幸社会」という言葉は「みんな均等に不幸なんだからまあ好いじゃないか」という社会を目指すような響きを感じて俺も嫌いだ。
丹羽宇一郎という伊藤忠商事の会長をやった男を中国大使にしたことについて、「文人の国としてみると、なぜ商売人の親玉なんだ」という印象があって面白くないのではないかと佐高が指摘しているが、同じことをアーミテージが「日米同盟vs・中国・北朝鮮」(文春新書)の中で「日本は中国に対して『経済問題だけに関心があります』というメッセージを送っているようにみえる」と語っている。
本書を読んでいると、たとえば佐高は小沢をダーテイな鳩と評価し、アーミテージは小沢を反米でペテン師だというように、立場が違う人たちが、同じことを言っているところがあるのが面白い。
加藤も佐高もメデイアに厳しい批判を浴びせる。
軍部に頼まれもしないのに、むしろメデイアのほうが軍部のお尻を叩いた面が多分にあったと加藤は云い、佐高は今のメデイアは”浮かれ正義”、石原莞爾を絶賛したことに露呈した、本質的な危険よりも万人向けのヒューマニズムを振り回した市川房枝のような“正義”に浮かれているという。
絶賛するか、袋叩きかのどちらかしかない。
若い人たちに送る言葉。
加藤は
豊かな感情というものがおろそかにされてきたということかと思います。つまり、感情教育がきちんとなされていれば、くだらないことで勧誘を受けても、軽々となびいていかない、反応しないわけです。それがなされていないから、ちょっと刺激されるとやられてしまう。佐高は
日本人は軽挙妄動が多いんです。すぐに軽信しますが、深く懐疑したうえで信じるということをあまりしない。すぐに分からなくていいから、自分の頭でじっくり考える。そういう資質が今、とくに求められているんじゃないですかね。感情教育、懐疑する心、いやはや、なかなかだなあ。
若者に限らず俺にも不足している。
ああ、だから若者に求めるしかないってことか。
角川ONEテーマ21
うーーん、すごく言えてる感じがする
私が思ってたことと一致する
日本人はある意味凄く幼いといつも思います
政治家しかり
まあ、普通に国民やってるだけなら幼くてもそんなに害はないかもしれないけど、幼い政治家は対外関係で誰にも相手にされない
一体どんだけ魅力的か?ってところが大事だから、良くも悪くも光らないといけないのに、光ってないもんね
そういう意味ではさ、あえてペテン師と呼ばれる小沢さんは、ある意味ましかもしれない
対外関係においては、相手をペテンにかける、かけられるくらいの気概が必要だと思うから
豊かな感情...その通りだと思います
あれこそ彼らの本音、本音と建前を使い分ける点では日本人より遥かに上手です。
そういうペテン師からペテン師と認められたのだから小沢も大したものかも^^。
若い頃は「革新」を軽信していました。最近はどれもこれもが懐疑の対象です。これも問題ですね。
どうも女性のほうがいいことをいうような気がします。