俺は山姥にゃのだ 国立能楽堂定例公演「山姥」「柑子」
2011年 01月 15日
毎日、退屈でねえ、3連休なんて言っても何にもやることなくてもてあましちゃった退屈だから能を観に来るのかなあ。
俺は能を観に来るから結構忙しいんだけど。
気取ってこんなことして出してるが一編に具をぶち込んで食べる)
テレビで高齢者でゲームセンターに通っている人が多いと、「一回、2、3000円だから安上がりだし、頭の体操にもなる、知り合いもできる」とお爺さんの言葉を紹介していた。
2,3000円もあったら能でも落語でも映画でも本を買ってもいいのに、と思うのは俺の勝手だ。
その能楽堂、一月定例公演は狂言「柑子(こうじ)」から。
主人(山本則俊)にあずかった「三成りの柑子(三つ一緒になっている、昔のミカン)」をくれたものと勘違いして食べてしまった太郎冠者(山本東次郎)、主人から返せと言われて、ひとつはヘタから落ちて可哀そうだから、も一つはつぶれてしまって、、それで最後のひとつは、、苦し紛れに身振り手振りで言い訳をするのが愉快。
手作りの干し柿みたいな味のする滑稽だ。
今日のお目当ては能「山姥」
あれは3年前、動き始めた汽車に飛び乗ることもなく、能の先達に導かれて友枝昭世の「山姥」を観た。。
それまで知らなかった世界の魅力に圧倒されて夢中になっていたから、この記事を今読むと我ながら照れくさい。
山姥ってなんだろう?
里の男(山本秦太郎)は①落ちたドングリに木の葉が絡まって山姥になった(ドングリ目、の語源)②崩れた崖から表れた野老(ところ)という植物に塵芥がくっついて山姥になった(野老の根が髭になった)③朽ちた木戸が山姥になったの三説を披露する。
遊女(ツレ・清水義也)の従者(ワキ・森常好)は、いやそうじゃないだろう、鬼女が山姥になったんじゃないのか、という。
生所(生まれたところ)も知らず宿もなし、ただ雲水を頼りにて、至らぬ山の奥もなしだから人間というわけでもなく、雲のような身なのだが、鬼女の姿に化けて現れたのだ。
でも姿は見えないけれど人間のいろんな手伝いをしているんだよ。
山姥(シテ・観世清和)が現れて舞い、謡い、解き明かす。
さらに、春は梢の花を尋ねて、秋は清らかな月の光を尋ねて、冬は冴えかえる寒さの時雨を降らせる雲が雪を催すようにと、山を廻って
廻り廻りて、輪廻を離れぬ、妄執の雲の、塵積もって、山姥となれるそういって山姥は峰に飛びかけり谷に大きな音を立てて、山また山を廻ってどこかへ行ってしまったのです。
妄執の塊、輪廻の囚人、だから俺も山姥なんだ。
山姥は忙しいのだ。
見たい映画も見れず、行きたい展覧会にも行けず、、それほど忙しいのだ。
笛 松田弘之 小鼓 観世新九郎 大鼓 亀井広忠 太鼓 観世元伯
一回、2、3000円だから安上がりだと言ってみたい。
忙しいのは幸せです。
2000円稼ぐには、バイトなら2時間は立ちっぱなしで働かなければならないです。
そういう仕事すらない若い世代にとっては大金です。
たまに還暦すぎた方とお話しますが、裕福であるのに、殆どの方の話に内容がなく、結局は何かと不満を持っておられます。
何なのでしょうねえ、、よくわかりません。
NHKの中継でもよくお顔を拝見します。
何とか気持ちだけは好奇心を持ち続けていたいと思いますが。
歌舞伎の噺もしてましたが、どうもねえ。
もしかすると相撲かな^^。
今夜もゆっくり忙しくしてきましたよ^^。
しかし・・2~3000円あったら、4人家族の夕食が十分できます。
ゲームにうつつ抜かしていたら、肩こるぞ、ランドセルでも寄付せい!と言いたいですね。内にも来て欲しいと待っている施設はまだまだあるようなのですわ。
何かをしなければ、と焦る事なく。何もなくても卑屈になる事もなくね。そんな感じです。
散歩も階層としてやむを得ずやってるのと威風堂々余裕綽綽やってるのと、公園グループもいろいろですなあ。
私は山姥グループかな、あっちもこっちも妄執の塊です。
菅じゃなくて伊達な人間の集まり!^^。
「今を生きる」という名画ありましたが、多くの日本人が若いときから「今」を精神的・身体的に「豊かに」生きて来ずに、平均寿命だけが世界最高になってしまった悲喜劇ですね。
その意味で、佐平次さんの生き方は、かつても現在も「今を」「豊かに」生きて、新しい老人文化の一つのモデルを示されているように思います。
及ばずながら、僕もその後を追いたいと思っていますので、今後ともよろしく!
だいたい一人で出かけます^^。