能は今の能そのままでなければいけないか 能楽現在形@世田谷「安達原」
2010年 12月 21日
能は片山清司、歌舞伎は市川亀治郎がシテをやったのだが俺はそのとき能の素晴らしさに魂消たのだ。
省略の極にあるような舞台とお囃子、演技はさらに必要最小限の動作でありながら糸を繰る老婆(鬼女)の哀しさをず~んと訴えてくる。
ぴ~んと張った糸のようにシテと観る者の間に緊張感があって、俺のような貧しい想像力ですら全開を強いられる。
その快さ!
あれからかなり能をみるようになった。
それまでは能なんて田舎者の俺にはまったく無縁の存在だと思っていたのに。
「能楽現在形@世田谷」は「能は能か 演劇か」をテーマにして、能の新しい演出を世田谷パブリックシアターの舞台で試みている。
先日はここで「安達原」を見た。
暗いホール、ホリゾントに夕焼けから夜の照明があり、最後には大きな三日月がかかったり、橋掛かりは舞台後方を横断する橋と真ん中から中央を通って前面に降りてくる橋が使われる。
スモークが使われ効果音もある。
ススキが風になびいていかにも安達原だ。
最初から最後までとても美しい舞台だ。
詞章や舞などは能舞台でやるのと基本的に変わらないと思うけれど、メリハリが利いてスピーデイな感じがする。
なるほどなあ、こういう風にしたら能にとっつきにくさを感じている人にも分かりやすく感動が伝わるのかもしれない。
謡の詞章が聞き取れなくても大丈夫だ。
大いに満足して観た。
のだが、、イマイチ引っかかるのは、、分かりやすかった、ということ。
なにもわざわざ分かりにくくして観るのが良いというわけじゃないが、なかなか分かりにくい能を貧しい想像力を総動員して分かろうとする、あの緊張感みたいなものが少し欠けていたようなのだ。
夕焼け空が美しく、寂しげにススキが揺れ、大きな三日月がかかり、、、すべて美しいのだが、それはやる側が「こういう美しさですよ」と具体的に描いた美しさだ。
そんなことを言えば普通の能でも、老婆は老婆の面をつけ鬼女になったときは般若の面をつけるんだから、それだって具体的な描き方だと言えるかもしれない。
どこまで具体的に描くかは程度の問題、今回はその一つの試みとしていい線いってるじゃないか、とも思う。
だがやはり自分の力で月や夕空を想像できたらもっと素晴らしいだろうなと思う。
今の俺にはそれほどの力がないことを承知の上で。
4年前の三響会で能に軍配を上げたんだし。
シテ・片山清司、ワキ・阿闍梨裕慶・宝生欣哉、ワキツレ・大日方寛、アイ・野村萬斎
笛・一噌隆之、小鼓・幸 正昭、大鼓・亀井広忠、太鼓・観世元伯
地謡・観世喜正ほか
ほかに半能「絵馬」
天照大神(観世銕之丞)、天鈿女命(坂口貴信)、手力雄命(梅若晋也)が勇壮な舞を見せる天の岩戸神話。
「安達原」と同じ囃子方。
光の交錯、立ち込めるスモークが神話の世界らしい舞台となった。
天照大神が岩戸に入ると暗転し、出てくると、大神の周りから眩いばかりに明るくなるところなど、これまた分かりやすかった。
ラジオはクリスマスソング最高潮。
子供の頃のワクワク感は微塵もないけれど何となく楽しい気持ちになる。
驚くのは実に多様な世界中の歌手が多様な歌い方をしていて、これが同じ「ホワイト・クリスマス」?とびっくりしてしまう。
昔はビング・クロスビー、ペリー・コモ、、定番の歌集が定番の歌い方をしていたと思うが、もしかするとそうではなくて長野の俺には届かなかっただけかも知れない。
今のつまらない歌手よりよっぽど味がありますよ(笑)