月光値千金 老女の幽霊と月見をしました 国立能楽堂特別公演
2010年 11月 03日
気にかかっていたエアコンのフィルターを掃除する。
暑い夏、頑張ってくれたから埃も凄い。
ルンルン気分、洗ったフィルターを右足を脚立、左足をソフアにのっけて取り付けるために前に手を伸ばした、(ここから柳家紫文の長谷川平蔵風に)”というそのとき、佐平次の体が前のめりに崩れ落ち”そうになって、危うく窓に激突せんばかり。
左足だけがクッションに沈み込んだのだ。
さすがに鍛えた反射神経のお陰をもって辛うじてバランスを取ったが、危うく大怪我をするところだった。
各々がた、お気を付け遊ばせ。
一昨日の国立能楽堂古典の日記念の特別公演、素晴らしかった。
狂言の「箕被(みかずき)」
千之丞が病気休演というのが寂しかったかがシテ・山本東次郎、アド・茂山七五三(しめ)が演じる夫婦が楽しかった。
夫婦が同じ趣味を持つ(この狂言では連歌)って好いものだろうな。
能が大曲「姨捨」
あれはもう三年以上も前になる。
友枝昭世の「伯母捨」(喜多流はこう書く)を夢中になって観た。
笛・藤田六郎兵衛がしじまを切裂くと大鼓・亀井広忠と小鼓・大蔵源次郎が発止と受け止めて、そこに清浄の世界を創り出す。
旅人(ワキ・宝生閑)、その供(ワキツレ・宝生欣哉。則久英志)の名ノリが朗々と気持ちのよいこと。
シテ・片山幽雪が
のうのうあれなる旅人は何事を仰せ候ぞと呼びかける声が幕の内から聞こえるのがまるで地の底からの呼び声に聞こえる。
地謡、梅若玄祥、片山清司、、の玄妙。
太鼓の観世元伯も加わる。
アイ(所の者・野村萬)の語りに引き込まれる旅人たち。
嫋々たる笛だけが流れる時の流れがあり、それを裂帛の気合とともに転調する鼓、時に静かに時に舞台を揺るがすような地謡、ワキの眼差し、吸う息吐く息、シテの舞を睨むように窺う玄祥と亀井忠雄、、舞台のすべての者が小柄なシテの舞を、そのようなものとして創り出す。
煌々たる名月までも招来、シテの舞のパートナーとなっている。
能楽の不思議・偉大さを感じる。
最後にワキたち三人が舞台を去るのをシテが見送る。
あたかも生きている旅人たちが亡霊となって亡霊たる老女がこの世のものであるかのようだ。
能楽堂の中庭ではコオロギだろうか、美しい声でキリリキリリと鳴いている。
あまりにぴったりなので係りの人に「買ってきて放したんですか?」と無粋な質問をしたら「自然です」と一蹴された。
シテが月を仰ぐ時にこの虫の声が聞こえたような気がした。
160分という長さなのに次から次へと変化する眼前の世界に引き込まれて、ああ、感嘆!邯鄲!
能を一緒に鑑賞するという趣味もあったでしょうね。1つ目が開かれたというか。
危なかったですね。ああ、よかった、怪我をされないで。
あら、こんな才能があるのなら外に出なくても女房と二人で連歌をすれば幸せと元の鞘に収まるのです。
今はテンプラ蕎麦くらいは食べることが出来るのですがいざとなるとついつい他のものを注文してしまうのでした。
それでやっと、思いを決して天ぷらそばにしました。
恐ろしいなあ。
酔ってクダンのごとし、ってのは10年以上も前にやりました。手の指を摺りむいて血が出ました。それっきり無事、そろそろ気をつけなくちゃね^^。