能表現の奥深さ 「野宮」 第13回能楽現在形
2010年 08月 11日
諸国一見の僧(ワキ・宝生欣哉)が秋の千草が咲き乱れる嵯峨野の野宮跡にいると月のほのかな光の中を網代を張った牛車が近づいてくるではないか。
こんなところにおいでになるとは、やはり先ほど所の者(アイ・野村萬斎)に聴いた御息所でいらっしゃいますね。
それにしても、この車にはどんないわれがあるのでしょうか?
御息所の幽霊(シテ・片山清司)は、かつて葵の上との間で光源氏の寵愛を争い敗れた時の屈辱を物語る。
賀茂の祭り、車があたり狭しとたてこんでいる中で今をときめく葵の上の車が、邪魔な車を払いのけている。
御息所の車は小さいし、避ける場所もないからと、そのままにしていると
(ワキ)車の前後に、そういって御息所の霊は泣く。
(シテ)ばっと寄りて
(地謡)人々轅(ながえ)に取りつきつつ、人だまひ(供車)の奥に押しやられて、物見車の力もなき(見物に出た甲斐もなく)、身のほどぞ思ひ知られたる
旅の僧(ワキ)の問いに答えてシテが源氏物語に出てくる葵の上との車の争いのことを話しているのだが、途中からワキもシテと一緒になって本来ならシテのセリフであるべきセリフを語る。
始めは通りすがりの僧に過ぎなかったワキが徐々に御息所の生きた源氏物語の世界に引き寄せられてついにはシテと一体化してしまう。
「人々轅に取りつきつつ」は地謡がひときわ声を張り上げて「ひ、と、び、と、な、が、え、に、、」とあたかもグイグイと力を籠めて押すようだ。
それは御息所が遭わなければならなかった辱めの強さを現すがごとく、同時に御息所の怨念の深さが訴えられているがごとくである。
現実の嵯峨野の森に今は亡き野宮の世界を創りあげるとシテとワキ、お囃子、地謡は自在に自他の境を行き来して全体の世界に遊ぶようだ。
能の表現方法の融通無碍、自在なることに改めて驚かされる。
夢幻能の白眉とも言われる名曲、俺は初めてだった。
落語に比重がかかると能の方は足が遠のき財政上も能とはお別れしようかと思うこともある
。
しかしこういうのを観るとやっぱりやめられないなあ。
地謡の美しさ、お囃子の快さ、二時間うっとりした。
笛 松田弘之 小鼓 成田達志 大鼓 亀井広忠
地謡 梅若玄祥 岡久廣 梅若晋矢 観世喜正 山崎正道 谷本健吾 坂口貴信 川口晃平
舞囃子 天鼓 盤渉
シテ 坂口貴信 笛 竹市学 小鼓 成田達志 大鼓 亀井忠雄 太鼓 助川治
地謡 梅若晋矢 観世喜正 山崎正道 谷本健吾 川口晃平
狂言 越後婿 祝言之式
シテ 野村萬斎 笛 竹市学 小鼓 成田達志 大鼓 亀井広忠 太鼓 助川治
地謡 石田幸雄 深田博治 高野和憲 野村遼太
今日は「能楽現在形」千秋楽だという。
2006年に野村萬斎、一噌幸弘、亀井広忠の三人が土屋恵一郎をプロデューサーにして”新しい能楽の求心力”を模索・追求するために発足したのだと萬斎が書いている。
なぜ今辞めるのか、土屋もプロデューサーの仕事を辞めるということ、一噌幸弘がこういう日にも出演しないことなども何か関係があるのか、もとより俺には見当もつかない。
でも世田谷版も含めて10回やそこらは楽しませてもらった。
同人の健闘を祈ろう。
というわけでいつもと順番が変わって最後に狂言、といっても萬斎が獅子になって飛んだり跳ねたり舞台から勾欄を頭から飛び越えて橋掛かりでトンボを切ったり勾欄の上に立ち上がったり、、曲芸をたっぷり、有終の美を飾った。
入れて貰えなかったら私と能の関係も終わったと思います。