檻のない牢獄! 西澤晃彦「貧者の領域 誰が排除されているのか」
2010年 08月 01日
現代のそれは1990年代以降の野宿者の都市空間への溢れだし,2000年代に入ってのインタネットカフェにおける貧者の発見、「年越し派遣村」などを契機に隠蔽されていたもの、筆者の言うところの「貧者の領域」がそのごく一部を社会に晒している。
「非定住」「非組織」「非家族」の者たちが非国民的存在として制度的・社会的に排除され続けてきた。
かつて(戦時中の)の飢えを知る者からすれば現代の貧困は大した問題ではない、と嘯く人がいる。
かつて俺(子どもの頃の貧乏体験”自慢”が多い)のブログにもそういうコメントがあった。
しかしあの頃の貧困は社会的に共有されていたのだ。
その後の高度経済成長で人々は「総中流の神話」に身を委ね、時に現れる貧困には自己責任という念仏を唱え、貧困問題の現実から目をそらし続けた。
かつての貧困は「普通」だったが、その後も存在しつづけ今もなお増大しつつある貧者の群れは、「普通」から疎外され、アイデンティティを剥奪されて放置された存在なのだ。
財や権限を既得する層・集団や国家権力が、特定の社会的カテゴリーを資格外とみなし財や権限から締め出すとことを、社会的排除という。
筆者は社会的排除という概念で貧困問題をその歴史・実態・機制を探る。
筆者は貧困の問題を「存在証明の問題だ」といい、
パンを与えられることで解決される問題なのではなく、パンを奪い取ることで解決される問題なのだ。野宿者の生きる空間は「檻のない牢獄だという。
それは排除の空間、彼らは仕事もなく部屋もなく、組織・定住社会から排除され「福祉事務所は、命綱などではなく、人権などという概念が無効な非人間であることを思い知らされる場所」だ。
さらに「檻のない牢獄」は自己否定の空間でもある。
自己否定の感情に抗って自立を目指しても挫折することが一般である。
そして「檻のない牢獄」は死を待つ空間である。
観念論ではない。
その実態をホームレスへの取材やデータにより提示する。
筆者は東京の銭湯経営者にインタビューをする。
明治以降、新潟や北陸の人が銭湯経営に乗り出して、彼らは親分として郷里の人々を子分として住まわせ仕事を覚えさせやがて独立させた。
そして銭湯という空間にはさまざまな職種、出身、階層の人々が集まりながらリラックスする。
そこではお互いに守るべきマナーが自然発生的に作り上げられる。
番台の銭湯経営者はそれを見守るのだ。
すなわち
「都市的なもの」が、異質化された他者を受容して境界線を引き直す社会の自己運動を活性化している。そういう都市的な機能が徹底的な統制ーディズニーランドや大規模ショッピングセンターに観られるような“提供されたシナリオ”に興じ、共存する他者の不在ーや自己責任(かつて、自業自得と言った、むしろそれが本音)の観念、さらに経済的衰退による周縁化などにより、失われている。
シャッター通り、銭湯の衰退(あってもマナーの悪い利用者)、、俺にも理解できるな。
そして新自由主義の挫折により貧困問題が語られるようになった今でもなお貧困問題は隠蔽策(分散と隔離)であリ続け、治安問題にすりかえられたりしている。
“福祉”政策が新たな排除すべき対象を創り出している。
脱領域的なアテンション(他者への注意力、心の傾注)を持ち続ける人々、それを筆者は社会系という。
80年代以降、多様な弱者・マイノリティの支援運動の現場にどこからともなく現れた、既存の政治力とは無縁のような人々。
そんな人々が社会系というべき人々の集積の露呈とは考えられないだろうか。
と、筆者は彼らに期待する。
今が社会の危機であるからこそ、社会は想像されうるのかもしれないと。
排除された貧者の憎しみが重要な鍵を握っている(握らされてしまっている)。憎悪は人々に途方もないエネルギーを充填させる。屑やの久さん!酔っぱらわなくても声をあげようぜい!
憎悪をいかに除去すべきかという問題のたて方は、貧者を再び隠蔽するものに過ぎない。そうではなく、憎悪がやはり公共圏から締め出されていて社会化されていないことが問題なのである。敵対は忌避されるべきものだはなく、言説化されねばならない。
河出ブックス
とうとう近所中が怖がって窓を閉め切って暮らすことになり、しびれを切らしたご近所さんと一緒に交番と不動産屋に談判に行き少し納まりました。
その方、表面的な人つきあいすらできないようで、20年近く同じ部屋に住んでいるのに、近所つきあいがないのです。
自分だけの親密な人間関係に重きを置きすぎて、自然なマナーがなくなってしまったのでしょう、、
心の貧困を痛切に感じた出来事でした。
それぞれの“矜持”をもっているのですがそれが生きることを難しくもしているのだと。
もともとは普通の家族を持っていた人がホームレスになって自己否定の念から人と会話ができなくなる事例も多いそうです。
もちろん隣の方のことではないですが。